『 いつでも備えるべき希望 』
ペトロの手紙一 3章 15~16節
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1章7節)」
ギリシャ語の言葉で、“マルトゥス”、つまり証人という言葉があります。これは主イエスが弟子たちに期待しておられた使命を現した言葉でもあります。この言葉は法廷用語として「証人、証言をする人」という意味を持ちますが、もともと「殉教者」という言葉から来ています。つまり、証人というのは、命をかけて自分の知っている事実を証言する人なのです。
それでは、キリスト者が証人として命がけで伝えるべき証言の内容は何でしょうか。それは、「イエス・キリストが主であること、イエス・キリストが十字架にかかり死なれたことによって、私たちのすべての罪を贖われたこと、そして3日目に死から復活されて今も生きておられる方であること、さらに主イエスを通らなければ救いの道は得られず、主イエスを信じることによって永遠の命が与えられ、神の国が約束されている」ということです。私たちはこの福音の知らせを伝える証人です。主イエスはその一人の証人を喜ばれ、その人を通して新しい神の子どもが誕生し、その人がまた一人の証人を育て、そこでまた新たな一人が生まれ、神の国は広がっていくのです。ここに神のビジョンと情熱が示されています。そして、父なる神は、そのビジョンと情熱を聖霊の感動を通して、今ここに集っている私たちにも与えてくださったのです。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。(ローマ10章14節)」
本日の御言葉の中でペトロは、自分のうちにある希望について説明を要求する人には、「誰にでも、いつでも」弁明できる備えをしておく必要があると教えます。まさに、ローマの統治下にあった当時、暗闇の世界に生きる未信者の人々は、厳しい試練や迫害のただ中に置かれながらも「生き生きとした希望」に満たされて生きている初代キリスト者の姿を見て不思議に思い、「その信仰について、生き方について、またその希望について」尋ねることになったのです。
そうです。キリスト者はその時のために、いつでも弁明できるように備えをしておかなければなりません。ここで言う「弁明する」とは裁判用語で、受動的な弁明や弁護ではなく、積極的に確信している福音について明確に告げることを意味します。しかも、弁明の時の姿勢として、「傲慢にならず、常に穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」、神と人の前でふさわしい姿で弁明すべきであると示しています。
本日は、宣教の時間を用いて福音伝道の実際の例を分かち合いたいと思います。今まで伝道したくても何を伝えるべきか、分かりやすく伝える方法はないのかと悩んでいた方々に良いヒントとなりますように…ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿