2024年6月23日日曜日

2024.6.23 本日の宣教

   『 自然を愛する 』  

                        創世記 1章20~23節

神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。

北海道にある酪農学園大学の建学の精神は、「神を愛し、人を愛し、土を愛す」です。この言葉は、三愛精神と言われ、大正・昭和に活躍したキリスト教社会運動家である賀川豊彦が農村伝道に用いました。もとはデンマークの牧師が18世紀に提唱した思想に由来しているそうです。

私は、神が「良し」とした「自然」を「土」に変えて言い換えたいと思います。もともと「土」は、祖国を改訳したもので、デンマークの民衆のための学校で用いられた農民伝道思想から来ているそうです。

私は、東京で生まれ育ったのですが、子どものころから近所の池や森で遊ぶことに夢中になり、ほとんど自宅では勉強をしませんでした。学校から帰宅するとランドセルを玄関に放り投げて、四手網という四角に広げられる網とバケツをもって、家から歩いても5分ぐらいで行ける神社の池に走って出かけていきました。池に着くと、この網を拡げて、裸足で池に入り、石の下や水草の所に四つ手網を仕掛けて、そこに足で追い込むと、ザリガニや魚などが沢山採れました。玉網と四つ手網は、池や川で遊ぶ必需品の一つでした。

私は、釣り好きで知られていますが、初めて釣りをしたのは小学3年生でした。当時は、雑貨屋で結び目に赤い塗料を塗った袖針が3本くらいのセットで、針を三角形に折ったセロファン紙に包んであって、5円くらいだったと思います。道糸も安い糸で竹ののべ竿を買ってったと思います。道糸も安い糸で竹ののべ竿を買って神社の池に釣りに行きました。

初めてつり針を買った日のことを忘れることができません。その夜釣り針を拾う夢を見ました。釣り針を拾い、ワクワク、ドキドキして釣りに行こうとするのだけども、母親に買い物を頼まれたりして、なかなか行けず焦れったく思っているうちに、その釣り針を無くし探し回って絶望的になったような夢でした。その時から釣りに行こうとして行けなくなると、精神的なダメージとストレスで自分が自分でなくなるような感じになるのです。「先天的な」釣り好きで、これも神様から与えられた「賜物」なのでしょうか。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、ガリラヤ湖でイエス様が「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」という呼びかけに網を捨ててイエスに従いました

パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」

釣り好きで、弟子たちやパウロのようにはなれない自分自身であります。釣りに行かないとストレスがたまるのですが、同時に釣りに行く度に後ろめたさを感じます。神様は、そんな自分を「良し」と言ってくれるでしょうか?


                        島田 茂


0 件のコメント:

コメントを投稿