『 互いに弱さを誇りましょう 』
コリントの信徒への手紙二 12章9~10節
父の日、おめでとうございます!
日本や韓国のような儒教的文化の国々において、父はいつも孤独な存在です。社会に出ても、家に帰っても、弱音を吐くことができず、重荷を背負って働き続けるのが父のイメージでしょう。
私はよく娘から「パパはいつ泣くの?パパが泣く姿を一度も見たことがない!」と言われます。しかし私も、ドラマや映画を見ながら悲しい場面や感動の場面があると当然涙を流しますし、特に一人で祈るときはしょっちゅう泣きます。イエス様の十字架の前にひれ伏すと自然に心が熱く燃え始め、神の愛が波のように押し寄せてきます。そうするうちに自分の弱さと罪深さを告白し、聖霊に包まれ、自分の罪と汚れ、弱さが癒され強められる恵みをいただき涙を流すのです。
使徒パウロは、もともとこの世における価値観からすれば誇るべきものをたくさん持っていた人でした。最高の家柄、最高の学歴、最高の働きなど、自分には弱いものがあってはならないという姿勢を貫いていた人でした。しかしイエス・キリストの十字架に出会い、彼自身がいかに深い罪人で、いかに弱い存在であるかに気づいてからは、強がることをやめました。そして彼はいつもイエス・キリストの十字架を見上げ、その十字架から注がれる恵みに浸される日々を過ごすことになりました。そして、いつの間にか「自分の弱さを誇ります」と告白するようになったのです。
さらに、自慢すべきあらゆる誇りのすべてを塵芥のように見なし、イエス・キリストの十字架、その十字架によって示される弱さこそが本当の強さであり、神の恵みであることを証ししています(フィリピ3:8)。
日本社会では、強さや成功がしばしば称賛されます。しかし、聖書は逆説的に、弱さを通じて神の力が完全に現れると教えています。私たちが自分の弱さを認めるとき、神の強さと助けを求める謙虚な心が生まれます。この謙虚さこそが、神の恵みと力を受け入れるための重要な要素です。
私たちは、パウロが告白しているように、「神の力は私たちの弱さの中でこそ十分に発揮される(9節)」ことを知るのです。私たちが自分の弱さと限界を感じ、そのままを神の御手にゆだねるとき、そこから神の無限の力が働き始めます。このことは、私たちが自分自身の力や知恵に頼るのではなく、神にすがり神に依存することの大切さを教えてくれます。
主イエスは今ここにいる神の家族一人一人に、また父の日を迎える兄弟方に、神の前で弱くなりなさい、互いに弱さを誇り合いなさいと勧めておられます。もしかすると、「神の前には弱さを誇れるけど、人の前では弱さを見せたくない」と考えている人がいるかもしれません。しかし主イエスこそ、御自身の弱さを弟子たちと分かち合われ、弱さの象徴である十字架を通して神の御業を成し遂げられたことを忘れてはならないでしょう。
願わくは、互いに弱さを語り合い、支え合える小泉町教会の群れであるように、またパウロが示すように、互いに「弱いときにこそ、強い」という信仰による逆説の恵みを経験し、素晴らしい主の栄光を周りに流すことができますように。…「互いに弱さを誇りましょう。」
ハレルヤ!
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