『 神の御心に調律する 』
ヨハネによる福音書15章7~10節
詩編150編は「息あるものはこぞって主を賛美せよ」という有名な言葉で親しまれている箇所ですが、この詩編を黙想しながら、一つ気づいたことがあります。それは、この詩編にはたくさんの楽器が登場しているけれども、それぞれの楽器を単に演奏するだけで、それが賛美になるのか、という疑問でした。たとえ立派な楽器の専門家たちが、それぞれの楽器を巧みに演奏するとしても、基準音に調律されなければ、その演奏はもはや失敗することが決まっていると言えましょう。
神様と私たち神の子どもたちとの関係においても、なくてはならない大切なことが神の御心に合わせて調律することであることをぜひ覚えてください。そして、クリスチャンにとって神に対して調律する道具となるものが祈りであることを心に刻む必要があります。昔から祈りはクリスチャンの呼吸と言われてきました。私たちは呼吸をしなければ、一時も生きることができないように、祈らなければ私たちは神の子どもとしての神が望まれる生活ができなくなると聖書は教えています。
この世における神の子どもとしての生活は常に誘惑に遭い、様々な生活の問題の中で失敗してしまうことが多々あります。その中で、私たちは祈りを通して神の御心を探し、その御心に自分自身の心と生活を調律していく行為こそ祈りなのです。その通り、私たちの祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に、自分の音を合わせることを目的としていることを覚えてください。だから私たちは、毎日、何度でも、私という楽器が神様の御心を演奏するにふさわしいかどうかを尋ね、神の御心に調律するため祈りの座に進まなければならないのです。
そして、私たちの祈りが神の御心に調律されたと思った時に、神が私たちの祈りに応えてくださるという確信を抱くことになるのです。このことについて描いている聖書箇所が本日与えられている御言葉です。ヨハネ15:7です。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
そうです。私たちの祈りが本当にこたえられるためには、まず「主イエスにつながること、御言葉が私たちの内にいつもあるように備えること」を前提としなければならないのです。皆さん、御言葉こそイエス・キリストです。すなわち、「御言葉なる主イエスをいつも私たちの内に迎え入れ、その方とつながっているのであれば」というわけです。そして、これこそが、「祈りによる調律」と言えるのです。
だから、「イエス様は私の祈りに応えてくださらない!」と嘆く前に、私たちが神の御心につながっているのか、主イエスに調律され、御心と一致した心を持って歩んでいるのかを心にとめつつ、絶えず、神の御心に調律し、その方との一致を成していく、その人こそ幸いな人なのです。
ハレルヤ!
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