『サーバント・リーダーシップを武器に』
マタイによる福音書20章25~28節
私たちクリスチャンにとってみると「サーバント・リーダー」、つまり「仕える指導者」という言葉で思い描くのは、イエス・キリストの姿と教えです。イエスは、四つの福音書全てにおいて、サーバントとしてのあり方をこの世にある短い人生を通して、弟子たちに、そして、私たちに教えています。
マタイとマルコによる二つの福音書では、ゼベタイの息子であるヤコブとヨハネの母のイエスへの願いから、共通の内容が描かれています。マタイによる福音書20章25~28節「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。』」この言葉は、マルコの福音書では二人の母ではなく、直接2人が願い出ているとしていますが、10章45節に同一の内容が描かれています。
この内容は、イエスが栄光の座、つまり、王座に就くときに、二人のうち一人をイエスの右に、もう一人をイエスの左につかせて欲しいという願いです。王に次ぐ権力の座を得たいという願いです。
マルコ福音書で弟子たちの「誰が一番偉いか」議論の中で、9章35節「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたいものは、全ての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」マタイでは、18章1~5節の「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と表現されています。
ルカの福音書では、22章24~30節において弟子たちの「誰が一番偉いか」議論の中で、マルコ9章35節と同様に、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」とあります。
それぞれイエスがエルサレムに入り十字架につけられるため、捕らえられる前の最後の方の教えです。
ヨハネの福音書では、最後の晩餐の前に「弟子たちの足を洗う」という行為を通して、仕え合うことの重要性を説いています。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13章15節)
権力者が権力を維持するために、世界の平和を崩し、戦争に人々を追いやっている現実が歴史の中でも、そして、現在も起きています。イエスの教えの中で、いかに「仕えること」が重要なのかが分かります。「互いに愛し合うこと」は、「仕えること」そして、「仕え合うこと」によって成しとげられます。
島田 茂兄
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