『 変えられる聖霊 ①』 (ローマによる福音書8章14~17節)
先週はペンテコステ礼拝でした。聖霊が教会とキリスト者の上に臨まれたことによって、教会が誕生し、神の新しい創造の業が始まったのです。真に、この日がなかったら、初代教会の誕生も、私たちの救いもなかったはずです。特に、聖霊は今も生きて働かれるお方、私たちを日々導かれ、交わってくださり、助けてくださるお方であるので、聖霊を除いては、私たちのすべては成り立ちませんし、将来へのビジョンを抱くこともできなくなるのです。そういうことで、本日私たちは、常に生きて導かれ、また、すべてを新しく変えられる聖霊との交わりについて、分かち合いたいと思います。
聖書に登場する聖霊の最初の記事は、「神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:2)」とあり、天地創造を成し遂げられたこと、その中でも、「命の息」として最初の人間アダムを生きる者とされたのも、聖霊の業であることが記されています(創世記2:7)。
聖霊が登場される聖書箇所を見ると、多くの場面で聖霊は汚れているものを聖め、弱いものを強められています。死んでいるものを蘇らせ、個人や共同体を新しくされることが描かれています。とりわけ聖霊降臨の圧倒的な力によって、初代教会が誕生したこと、その結果、恐れと不安に捕らわれていたペトロをはじめ弟子たちが、死をも恐れない伝道者に変えられ、彼らを通して爆発的な成長を成し遂げる初代教会の力など、すべてが聖霊の臨在と助けのもとで、成し遂げられたわけです。
本日の聖書の御言葉で、使徒パウロは「神の霊なる聖霊はキリスト者の内に宿っておられる方で、聖霊によって導かれる者は皆、神の子」であると教えます。新約聖書の中で、聖霊とキリスト者との関係を最もよく説明してくれるイメージこそ、「聖霊が宿られる神殿」であると言えましょう。すなわち、聖霊はいつもキリスト者の内に宿られ、親密な関係を結ぶことを望んでおられるのです。ですから、聖霊の神殿である私たちは、常に聖霊を意識しつつ、聖霊の御心を尋ね求め、御心が何であるか、何が聖霊の喜びであり、何が良いことで、神の栄光となるのかを考えつつ歩むことが大切です。
そこでパウロは、聖霊が宿っているキリスト者について、「神の子」という特権をもっているのだと宣言します。さらに聖霊は、キリスト者に父なる神に対して「アッバ、父よ」と呼ぶようにしてくださいます。だから「聖霊」は、人が作った虚像でも、妄想でも、作り話でもありません。その方は、絶えず命をもたらし、今も生きてあなたを助け、励まし、愛の呻きをもって執り成してくださいますし、たとえ私たちが苦しむことがあっても、その苦しみさえも益となるように変えてくださるお方なのです。
このような聖霊が、あなたの人生の中で生きておられますか。幸いな人とは、日々、聖霊との豊かな交わりに歩んでいるか否かによって、決まることになるでしょう。ハレルヤ!
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