『 どこも神の家 』 (マタイによる福音書9:9~13)
主イエスは家を持たないお方でした。天の御国を捨ててこの世に来られた時から十字架の上で死なれる時まで、一度もご自身の家を所有することはありませんでした。ある律法学者が、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と尋ねられた時、主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:19~20)と答えられるほどでした。
現代社会の人々にとって家を持つということは大きな夢であり、逆に大きな重荷でもあるでしょう。なぜならば、長いローン契約をしてまで自分の家を持とうとするからです。それほど家というのは、人々に安定感と憩いを与えるものです。
しかし主イエスの姿から驚かされるのは、主イエスは家をもたなくても、行く先々、出会う人々の家を、まるでご自身の家のように受け取られ休まれる場所とされたことです。すなわち、主イエスがおられる場所はその場所がどこであってもご自身の家のように過ごされていたということです。本日の聖書箇所においても、主イエスは徴税人のマタイの家を、まるでご自身の家でもあるかのような姿で過ごされます。とりわけ当時一緒に食事を共にしていた人々は、徴税人や大勢の罪人たち、すなわち当時のイスラエル社会では禁じられていた人たちで、食事をしながら楽しそうに交わっていたのです。
その通り、主イエスはこの世の価値観に捕らわれる方ではありませんでした。そして主イエスはその場所が罪人の家だろうと、どのような人々が集まっていようと関係なく、その場所をご自身の憩いの場所、ご自身の家へと変えていかれたのです。主イエスはご自身のおられるその場所をご自身の家とされたのです。だからお生まれになった馬小屋においてもスヤスヤと眠ることができましたし、大波が起こる湖の小さな船の中であっても平安に眠ることができたのです。また、イスラエル社会では赦されない徴税人のザアカイの家をも、病人のラザロの家をも、さらに災いと呪いの場所であったゴルゴタの丘をも救いの場所、平和が実現する場所に変えていかれたことを聖書を通して学ぶことができます。まさに主イエスがおられる場所であれば、同じ場所にいる人々までも神の家にいるような平和と安息を味わうことができたのです。
主イエスは、いかに汚い場所、人々が好まない場所であっても、ご自身がおられるゆえにその場所を聖なる場所、神の愛と恵みが溢れる神の家に変えてくださるのです。そして主イエスは今日も、主イエスの名前で集まる二人、三人のいるところを神の家だと、神の国が実現する場所だと宣言しておられます。
愛する神の家族の皆さん、皆さんがいる場所がいかに騒がしく、汚い場所であっても、主イエスがそこにおられれば、そこは聖なる神の家、神の国と変わることを覚えましょう。私たちが日々、主イエスの御言葉に従い、主イエスと共にいることを望み、主イエスと共に歩み行動することができれば、その場所はどこであっても神の家、神の国に変わっていくはずです。ぜひ、あなたがどこにいてもその場所が主イエスを招き入れ聖なる神の家に変えられる恵みを体験する日々でありますように…。ハレルヤ!
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