2022年11月20日日曜日

2022.11.20 本日の宣教

 『 神の祝福が臨まれる人 』(創世記39:1~5、45:5)

本日の礼拝では子ども祝福式が行われます。私たちが子どもたちを祝福するのは、聖書の教えであり、主イエスの命令でもあります。わが子が神の栄光を現し、神の祝福の源となる人生を歩むようにと祈りましょう。

さて、本日はヨセフ物語を分かち合いたいと思います。ヨセフの呼び名とすれば、「夢見る人」であると言えましょう。そこにもう一つの呼び名をつけるとすれば、「神の祝福が臨まれる人」ではないかと思います。なぜならば、彼が行く先々、どんな場所であっても、どのような働きであっても、彼を通してその場所と周りの人々が神の祝福に与ることになったからです。ファラオの侍従長ポティファルの奴隷であった時も、濡れ衣を着せられ監獄に入れられた時も、エジプトを治める責任者となった時も、ヨセフの上に臨まれた神の祝福は変わらず、周りへと流れていきました。

しかし、私たちが注目すべきところは、神の祝福が臨まれた人だったから、彼の人生は常に平坦で順風満帆であったというわけではなかったということです。むしろ、ヨセフの人生は他の人よりも、多くの試練と逆境があり、波乱万丈とも言えるような生涯であったために、神を信じる人々に新たな祝福の道を示してくれるわけです。

実際、ヨセフは信頼していた兄弟たちから裏切られ、はるばるエジプトに奴隷として売られてしまった時、兄たちへの憤りと復讐心に燃え、悲惨な人生を選ぶこともできたはずです。しかし、ヨセフは置かれた場所で、神と共に歩み、誠実と真実をもって仕える姿勢を貫きます。聖書は「主がヨセフと共におられたので、事は順調に運んだ(2,3節)」と記します。17歳で兄弟たちに裏切られ、奴隷となったヨセフの人生は、全く絶望に見えます。考えて見ると、ヨセフの人生の大半は自分の思いとは裏腹に、試練と逆境の連続でした。しかし、どんな試練の中にいても、ヨセフには神が共におられましたし、彼も神の臨在に生きたので、神は彼を祝福の源とされたのです。

私たちが忘れてはならないことは、神の人が祝福されるのは、神がその人と共におられるからです。「主が…共におられた」とは、ヨセフだけでなく、信仰の祖先であったアブラハム、イサク、ヤコブにも等しく与えられた約束であり、今はヨセフの上にも成就してくださっていることが分かります。その約束を信じていたからでしょうか。ヨセフは、絶望の状況においても、悲しみと心配、悩みに沈むことはありません。どんなに辛い時であっても、彼は主が共におられることを信じるがゆえに、置かれた場所で誠実を尽くしたので、彼を通して神の祝福が臨むことになったのです。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)」という御言葉こそ真実であって、ヨセフの生き方そのものでした。

ポティファルも、監獄の長も、そしてファラオも、ヨセフの上に臨まれる神の祝福に気づきます。その通り、神の民の神への従順は、不信者にも影響を与え、神の民を通して神が生きて働かれることを直接にも、間接的にも経験させることになります。もちろん、悪しき者は常に神の民を試み、打ち倒そうと攻めてくるでしょう。それでも、神の民はどんな誘惑や試みに呑み込まれず、その誘惑を追い払うことができます。結局、ヨセフの人生に起きた様々な試練は、ヨセフを成熟させ、彼を高めるための神の働きのプロセスとなりました。小泉町教会の子どもたちも、ヨセフの生涯に倣い、人生のどんな時、どんな場面においても、神の祝福が臨まれる人として歩めるように願いたいものです。ハレルヤ!


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