2022年11月14日月曜日

2022.11.13 本日の宣教

 『 主が望まれる教会⑦ : ラオディキア教会① 』~あなたの信仰の温度は?~(ヨハネの黙示録3:14~22)

今日はヨハネの黙示録の7つの教会のうち、最後の7つ目のラオディキア教会について分かち合いたいと思います。

「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。(3:14)』…ラオディキア教会に紹介されている主イエスは「アーメンである方」です。私たちは口癖のようにアーメンと告白します。「アーメン」とは、「しかり、まことに、確かに、その通りになりますように」などの意味として使われている言葉です。まさに信仰の応答の言葉であり、信仰を表す意味として使われる言葉です。しかし、この「アーメン」が主イエスを表す称号となると、「全き信頼できるお方、その方こそ真実な方で、約束されたことは必ず成し遂げられるお方」という、主イエスを保証する意味として使われることになります。その続きの「誠実で真実な証人」という意味も、アーメンと同じく「父なる神から遣わされ神の御心を十字架の上で命を捨てられるまで、誠実と真実をもって証言される証人」であることを告げているのです(証人(マルトゥス)=殉教者)。

さらに、主イエスこそ「創造された万物の源」、すなわち「アルファ(初め)であり、オメガ(終わり)である創造者」であることを証しするのであって、これから告げられるラオディキア教会を全く新しくされる神としてご自身を紹介されているのです。

興味深いことに、ラオディキア教会は、7つの教会の中で主イエスからの称賛の言葉はなく、サルディス教会同様、叱責だけが語られた教会でした。しかし、サルディス教会は、叱責の中にあっても、少数の白い服を着てイエス様と共に歩む働き人がいましたが、ラオディキア教会はそのような人もいなかったようです。それでは、ラオディキア教会への主イエスの御声に耳を傾けましょう。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(3:15〜16)」

この御言葉はとても有名で、当時のラオディキアの町の置かれていた状況を表しています。ラオディキアはもともと水不足の町でした。そのため、北のヒエラポリスという町からは熱い温泉水を、南のコロサイの町からは冷たい地下水を、それぞれ水路を通して供給してもらっていました。それぞれ、約10kmほど離れていたため、水路を通ってラオディキアに到達すると、熱かった温泉水も、冷たかった地下水もなまぬるく変わってしまっていたのです。つまり主イエスは、ラオディキア教会の信徒たちにとって、よく知っている自然現象をもって、彼らの信仰の問題が何であるかを示しておられるわけです。

当時のラオディキアは、それほど大きくはありませんでしたが、豊かな商業の町で、金融と羊毛、また薬、その中でも目薬で有名な町として、恐らくヨハネの黙示録の7つの町の中では最も豊かな町であったと思われます。その結果、ラオディキア教会の信徒たちも自分たちがもっている豊かさのゆえに、惰性と形式的な信仰姿勢をもっていたことが分かります。救われた感動も、終末への緊張感も感じられない、まさに「なまぬるい」信仰姿勢をもって生きていたと告げられているのです。そこで主イエスは、「冷たくもなく熱くもないなまぬるい信仰を、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と決断を迫られます。信仰には中立やグレーゾーン、すなわちあいまいな領域はありません。ラオディキア教会の信徒たちは惰性と習慣的な信仰生活に沈んでいました。世の光としても、地の塩としてもその味を失くしてしまった姿であったのです。そのようなラオディキア教会の信仰こそなまぬるいものであって、主イエスは彼らを口から吐き出そうとされるのです。私たちの信仰の温度は?…

                               (つづく)


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