『 キリストを食べる恵み 』 (ヨハネによる福音書6:53~58)
アドベントに入って主の晩餐式を執り行うことは素晴らしい恵みです。なぜならば、主イエスはご自身を「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)と言われましたし、ベツレヘムの飼い葉桶でお生まれになった時から命のパンとしてのご自身を示してくださったからです。私たちがイエス・キリストを信じるということは、「イエス・キリストについての神学や教理を信じる」ということではありません。私たちがイエス・キリストを信じるというのは、「イエス・キリストの肉を食べ、その血を飲むことです。」そうすることによって、私たちはいつも主イエスの内にいることができ、主イエスもいつも私たちの内にいることになるからです。これこそ、神秘です。
すなわち、主イエスを食べるとは、常に主イエスと共に、主イエスを感じ、主イエスと交わりながら生きることを意味します。そして主イエスの御心を日々の生活の中で表すことでもあり、私たちを通して主イエスが現れることでもあるのです。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6:57)…ここからもう一歩進んで、私たちがキリスト者になるということは、主イエスの言葉のように、自分自身にとどまらず、自分自身を超えて他者のためのプレゼントになる生活を心がけながら生きることです。
主の晩餐は、主イエスを信じる共同体が、十字架の上でご自身を裂いてくださったお体なる一つのパンを分かち合うことによって、みんなが主イエスの一つの体になる神秘を教えてくれます。主の晩餐は、あなたと私の差別もありませんし、好きな人も、嫌いな人もありません。みんなが主イエスの体の一部分としての一人一人を認め受け入れるように働きかけられるのです。
知的障害をもつ方々が通っている止揚学園では、主の晩餐式の時になると、生徒のみんなが拍手をしながら、“イエス様、ありがとう!”と、パンと杯を分かち合うことを喜び、感謝の歓声をあげて参与するそうです。愛する神の家族はどのような思いで主の晩餐式に参与しているでしょうか。今日の御言葉は私たちに語りかけています。“あなたはキリストを食べていますか。命のパンはただ一人主イエス・キリストです。主イエスを食べ、暗闇の中で愛と救い、永遠の希望に飢えている人々に出かけて行き、命のパンである主イエスをプレゼントしましょう。”
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