『 主は陰府にくだり 』(ペトロの手紙一3:18~19、詩編139:7~10)
使徒信条を学んでいます。本日は、「主は陰府にくだり」について分かち合いましょう。
今まで私たちは「主は、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ」の学びを通して、罪人たちへの主イエスの愛と救いの確かな約束を、確認することができました。ところが、使徒信条は、更に続けて、「主は陰府にくだり」という告白を加えています。それでは「陰府にくだり」とは、どのように受け止めるべきでしょうか。使徒信条が書かれていた当時の人々の間では、まず、天には神が住んでおられ、人間は肉体の命がある間は地上に住み、死んだ人は陰府に行くのだというように考えられていました。そして、この「陰府にくだり」という告白は、使徒信条の土台となったローマ信条にはなく、後に追加されたものであると言われています
「陰府にくだり」という告白部分の聖書の根拠とされているのが、本日の聖書箇所です。「霊においてキリストは、捕われていた霊たちの所(陰府)へ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」…実にこの箇所は、昔から、聖書の中で解釈の最も難しいところとされています。
それでは、使徒信条はなぜ「主は陰府にくだり」という告白を加えているのでしょうか。ドイツの神学者モルトマンは、この告白が加えられたのは、主イエスが、本当に死なれたことを確かな出来事として強調するためだったと語ります。すなわち、主イエスは、私たち人間と全く同じ死を経験された。そして、人間が行かなければならなかった死後の世界まで主イエス自ら下られた。だから主イエスの愛と救いの恵みが届かない所はどこにもないのだという信仰の宣言だったのです。天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にまでも、主イエスは下って行かれ、救いの手を差し伸べるという確信なのです。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(詩編139:8)…この確信の根拠には、「神が世を愛し、一人も滅びないように、永遠の命を与えるためである」という神の愛の熱情に対する信仰があるでしょう。
主イエスは、私たちの生きている地上だけでなく、罪人が死んで行くべき陰府にまで下ってくださった。神から最も離れたところ、陰府においてさ迷い続けている罪人たちを憐れみ、その魂にまで伝道される。罪人たちを救おうとされる神の愛の熱情は測り知ることができないのです。ただし、「救い」の領域は、ただ神の領域であることを忘れてはなりません。また、“主イエスが陰府にまで下って宣教されるという言葉のゆえに、今は伝道しなくてもいいのだ”という姿勢を取るのは、主イエスの愛に逆らう愚かな態度であることを覚えましょう。主イエスの「折が良くても悪くても伝道し続け、救いに導きなさい」と命じられる御声に、生きている間に応答できる私たちでありますように…。ハレルヤ!
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