『コラムデオ』~神の御前で~(出エジプト3:5、詩編139:1~10)
ラテン語に「コラムデオ(Coram Deo)」という言葉があります。「神の御前で」という意味で、常に神の前に立って生きるという信仰を表す言葉です。宗教改革を成し遂げようとしていた人々が交わしていた言葉でもあります。
「神の御前に立って生きる」とは、荒野の燃え尽きない柴を通して現れた神の前にモーセが立った時、「あなたの立っている場所は聖なる土地だから、足から履物を脱ぎなさい」(出3:5)という御言葉に履物を脱いだ、そのモーセの従順に続こうとする人の姿です。神の御前に立つというモーセの実存の経験は、彼の全生涯において神を意識して歩む生き方となりました。まさしく神の御前に立つことを経験した人は、尋ねる者から答える者として、神を問う者から神に問われる者として生きる生活の転換を迎えることになります。
神の御前に立つ者としての信仰姿勢が最もよく表れているのが、「詩編139編」であると思います。詩人ダビデに迫ってくる創造者なる神の働きに対してのダビデの信仰告白に耳を傾けましょう。
まず、創造者なる神は、私たちの考えや計画、行いをすべて知っておられる方です。神の御目はいつも私たちに向けられ、すべてを知っておられます。座るのも、歩くのも、伏すのも、また弱さも、恐れも、不安も、計画も、思いもすべて。しかし、神はそれらを責められるお方ではなく、私たちのあるがままを受け入れ、抱きしめてくださるのです。ある面、このような神の働きに恐れを覚え、監視されるような不安に捕らわれることもあるでしょう。しかし、愛する子どもを助けようとする親のように一時も子どもから目を離さない優しい神であることを詩人は教えています。
次に、神はいつどこでも子どもたちと共におられるお方です。詩人は自分自身の弱さのゆえに神から逃れ、隠れようとしますが、天に昇っても、陰府に横たわっても、海のかなたにいても、神は時間と場所に関係なく、いつも存在され、御手をもって捉えてくださるお方であると告白しています。人の人生は創造者なる神の御前にあります。ひとりも例外はありません。そのことを悟る時、人は自分が神に大事に愛されている存在であること、自分への神のご計画の素晴らしさに気づくことになるのです。
本日は子ども祝福式、私は望みます。小泉町教会の子どもたちがいつどこにおいても神の存在に気づき、常に神の御前に立つ者としての意識をもって歩むことを!神の御業のために用いられた信仰の先輩たちがこぞって身につけていた姿勢こそ、「コラムデオ」神の御前で生きる生き方を貫くことでした。今の時代こそ、悪しき者が子どもたちの目と耳と心、すべてを揺さぶろうと試みる時代であると言えましょう。この時代であるからこそ、「コラムデオの信仰」を子どもたちに教えるのです。そのためには、まず親なる皆さんが常に神の御前に生きる者としての模範を示すことです。小泉町教会の皆さんお一人お一人も「コラムデオ」と声を上げ、神の臨在を喜ぶ日々を過ごしましょう。ハレルヤ!
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