路傍伝道を通して与えられた恵みや諭された思いを分かち合います。 路傍伝道では沢山の人にお会いしましたが特にお二人の男性が印象に残っています。それぞれ別の日にお会いしたのですが、二人とも優しそうな70代ほどの老紳士で、殆どの方が拒絶の姿勢をとられる中とても親しげにお話しして下さいました。それだけで励まされます。ところが一人の方の話を聞いてみると娘さんが詐欺の被害にあったことを悲観してうつ病になり離婚、その影響で孫娘まで心を病み不登校になってしまったというのです。家族のことをとても気に病んでおられたので「すぐに解決出来ないかもしれませんが、まずあなたが主の救いに預かるならご家族も良い方向に向かうと思うので是非一度教会へ来てください。」(二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒16:31)と申し上げて別れました。もう1人の方は、若い頃小泉町教会に来られた事があり聖書の知識がある方でした。見るからに幸せそうで何も問題を持たないように彼は言います。「宗教はどれも立派な良いこと言うとる。死んだらアンタらは神様の所へ、わしら浄土真宗の者は仏はんの所へ行く思うて生きれば良い。」と。本当にそうでしょうか。主イエスが言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)」主イエスは神の独り子です。この言葉は真実です。若いうちに聖書に触れながら御言葉の素晴らしさに気付くこと無く、悪しき「この世の支配者(ヨハネ12:31)」サタンに欺かれて自らの考えが神様より正しいと思っています。
二年前失業して以来職場やアルバイト先で沢山の人達にお世話になっております。それらの方々は先のお二人の中間の方ばかりです。今思います。神様は彼らを深く愛しておられます。私は彼らの救いの為に遣わされました。うろ覚えではなく正確な御言葉を伝え福音の種をまき続けなければなりません。この世は福音を伝えなければ静かに生きられます。しかし御心を行おうとすれば戦いが起こります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイ10:34)
昨年最愛の兄を喪った時、人が悔い改めに許された時間は突然閉ざされるということを思い知らされました。完全であり全能、愛であられる神はすでに全てを備えて下さっています。私が生きているのはお金のような虚しいものの為ではなくただ神の栄光が現される為でありたいと思います。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:31~33)」 伝道は神様の喜びであり、福音を知らされた者は命を得、私達には成長と恵みをもたらします。
小泉町教会は主の栄光を現す為にたてられています。収穫の主の働き手とならせて頂きましょう。 S.Y兄
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