2025年11月23日日曜日

2025.11.2 本日の宣教

 『  私たちが抱く希望  』

                  テサロニケの信徒への手紙一4章13~18節

パウロは、いよいよⅠテサロニケの信徒への手紙の中心主題である、キリストの再臨とその時に起こる死者の復活について説明します。

キリスト者にとって、死とは生の終わりではなく、主イエスと再び出会い、永遠に生きるための入口です。ですから、キリスト者は死に直面しても悲しむことなく、むしろ喜びをもって受け止めることができます。

しかしパウロの時代、すでに死んだ信徒たちが、主イエスの再臨の時に、生きている信徒と同じように栄光にあずかることができるかどうかについて、議論がありました。これに対してパウロは、今生きている信徒たちだけでなく、すでに死んで肉体が朽ちてしまった信徒たちも、主イエスの再臨の時に神によって招かれるのだとはっきり語っています。ですから、死は決して悲しむべきことでも、悲劇でもありません。むしろ、死は祝福なのです。

次に、再臨の主と出会う信徒たちの情景を、生き生きと描くパウロの言葉に耳を傾けましょう。

「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(4:16~17) この再臨の希望は、単なる未来の出来事の予告ではなく、今を生きる私たちの信仰生活を形づくる力です。パウロは最後に、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(4:18)と勧めています。主の再臨を信じる信仰は、恐れや不安をあおるものではなく、むしろ互いを慰め、励まし、希望を分かち合う源となるのです。死を越えても続く神の愛と約束を信じるとき、私たちは失望ではなく、確信に満ちた歩みへと導かれます。

現代社会の中では、戦争や災害、病や孤独が絶えず人々を不安にさせています。しかし、そのような闇のただ中でこそ、キリストの再臨の希望は光を放ちます。主が再び来られるという約束は、すべての悲しみと涙がぬぐわれ、永遠のいのちが完成する日を指し示しているからです。

ですから、私たちは「いつまでも主と共にいる」(17節)というこの約束を心に刻み、主を待ち望みながら、地上においても信仰と愛に生きる者でありたいと思います。私たちが抱くべき再臨の希望に生かされるとき、死をも超える神の勝利が、すでに私たちのうちに始まっており、その勝利者として、栄光に満ちた人生を歩み続けることができるのです。ハレルヤ!


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