『 おくびょうから力と愛の人へ 』
テモテへの手紙二 1章7~8節
私たちの心は、なぜこんなにも頻繁に恐れ、落ち込み、落胆してしまうのでしょうか。本日の御言葉を通して、はっきりと分かることがあります。それは、「恐れや落胆、失望は、神がくださった心ではない」ということです。
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(1:7)」
使徒パウロがこの手紙を書いたのは、ローマの獄中で、死を目前にした晩年のことでした。冷たい牢の中で、彼の心は霊的な息子であり、最も信頼していた同労者テモテに向けられていました。当時、エフェソ教会の若き指導者であったテモテはとても繊細で、どこか気弱であり、人々の反応や迫害によって心を揺らす傾向をもっていた人でもあったと考えられます。
パウロはそのテモテに向かって、「あなたはおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をいただいているのだ」と語ります。ここで「おくびょう」と訳されるギリシャ語には、「後ずさりする」「恐れて逃げる」という意味があります。つまり、神ではなく、自分や状況を中心に見つめてしまう心の状態を指しているのです。これはまさしく、アダムが罪を犯した後に「わたしは裸なので隠れました」と言ったあの時から、人は恐れによって神から離れようとする性質を持つようになったことを思い起こさせます。恐れとは、神から離れた人の心のしるしでもあるのです。
しかし、イエス・キリストが十字架で死を打ち破られたとき、恐れの根は断ち切られました。パウロはその福音を体験し、「生きるにも死ぬにも主のもの」と告白しました。だからこそ、牢にあっても希望を語り、若い弟子に向 かって「恐れるな」と励ますことができたのです。
では、「力の霊」とは何でしょうか。それは人間的な強さや勇ましさではありません。「力」とは、神の臨在によって内から湧き上がる命の力です。私たちの信仰の歩みは「自分の力で」ではなく、「神の力によって」進むものです。弱さの中にこそ、神の力が現れる、それが福音の逆説なのです。
しかし、力だけでは人は救われません。そこに「愛の霊」が伴うとき、初めて神の力は人を生かす力となります。パウロがテモテを「わたしの愛する子」と呼ぶ姿から、彼の深い愛が伝わってきます。愛は恐れを締め出す力をもっています(Ⅰヨハネ4:18)。主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたとき、それは力と愛が一つになった瞬間でした。
さらにパウロは、「思慮分別」(慎み)の霊を挙げます。これは単なる感情の抑制や冷静さというよりも、聖霊に導かれたバランスの取れた心を意味します。力と愛を持っていても、思慮がなければ人を傷つけてしまいます。「思慮分別の霊」は、聖霊に従順である心のしるしです。祈りの中で神の御声に耳を傾け、何を語るべきか、何に沈黙すべきかを教えられる、それが、思慮分別の霊に満たされた人の姿です。
宗教改革を覚えるこの月、恐れの時代のただ中で、信仰に生きる者が再び証人として、光として立ち上がる。それこそが、神の霊によって生かされる教会の姿です。ハレルヤ!
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