2025年1月6日月曜日

2025.1.5 牧師室便り

 「ビオラのように」

今年の元日は、現実とは思えないような暖かい日差しの中で元旦礼拝を献げることができました。昨年の大地震の影響で、「再び地震が発生するのではないか」という不安を抱えていた方もいらっしゃったことでしょう。しかし、幸いにも地震は起こらず、 むしろ暖かな日差しの中で礼拝のひとときを過ごすことができました。

今年一年間、私たちはどのような歩みをすることになるでしょうか。イエス様の言葉にあるように、「明日は明日自らが心配してくれる」という教えを心に刻みつつ、明日のことは御手に委ね、一日一日を最善を尽くして歩んでいきたいと思います。

昨年の暮れに、少しだけ雪が積もっていました。その時、ひとつ気づいたことがあります。それは、昨年の秋に植えた花壇のビオラが、雪の中でもその弱々しい花を咲かせたまま、寒い雪の中でしっかりと立っていたことです。その薄くて繊細な花びらを見ながら、「あんなに弱々しい花が、どうやってあの重たい雪に覆われても元気な姿で冬を越え、さらに春には生き生きと花を増やしながら周りに広がっていくのだろうか」と感心しました。

イエス様は、自然の出来事を通して神の子どもたちに御心を示してくださいます。この一年、皆さんも厳しい寒さや大雪に押されながら過ごすことになるかもしれません。しかし、あのビオラを見てください。あの弱々しい花が、北陸という厳しい冬の試練に遭いながらも、その試練を乗り越え、花を咲かせ、そのやさしさと美しさを周囲に広めていることをぜひ思い起こしていただきたいのです。神の家族お一人おひとりが、ビオラの花を通して自分の弱さを誇りとしながら、神から与えられた美しい花を咲かせ、周りに神の愛を広めることができますように。
願わくは、神の家族一人ひとりが、互いの弱さを誇りとしつつ、どんな試練に対しても、神はその試練から立ち上がらせ、花を咲かせてくださると信じ、神の栄光を現す働き人として、また神の群れとして用いられることを期待して歩む者でありますように。・・・
心から愛し、祝福します。2025年も共に手を取り合い、神の美しさと素晴らしさを伝えていきましょう。シャローム!

2025.1.5 本日の宣教

 『主の憐れみを叫ぶ 』

                                                        マタイによる福音書 20章29~34節

 2025年、明けましておめでとうございます!!!

 愛する神の家族の一年間の歩みの上に、父なる神の平和と恵み、祝福が豊かに注がれますように…。

 さて、聖書の中では憐れむこと、特に憐れむ人は幸いだと語られています。なぜでしょうか。それは、この憐れむという姿が、神様を説明する最も大切な姿だからです。憐れむことの重要な特徴として、愛がなければ憐れむことができないという点があります。つまり、私たちに憐れむ心がなければ、誰かを愛することも、誰かのために祈ることも、奉仕することもできなくなります。それほど憐れむ心は大切なのです。

そして、ここで忘れてはならないことがあります。それは、本当の憐れみが必要な人こそ、周りの誰かではなく、私自身が神の憐れみを必要としている存在であるということです。皆さんは自分自身のことを憐れんできましたか。自分自身を憐れまない人は他人を憐れむことができません。自分自身を憐れむ人が神の助けと恵みを求めることになり、そこで真の恵みと赦し、神の愛に触れ新しい人として立つことになるのです。(ex.ペトロ、パウロ、放蕩息子など)

本日の御言葉には、イエス様に憐れみを求めて叫び続けた二人の盲人が登場します。ここでは、イエス様が十字架にかかるためにエルサレムへの旅を続けられる中で、大勢の群衆に囲まれながらエリコを出て行く場面を描いています。

ちょうどその時、道端に座っていた二人の盲人が、イエ スがお通りになると聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びました。彼らの目は見えませんでしたが、「ダビデの子よ」と、まさしくメシアの称号を使ってイエス様に叫んでいることが分かります。彼らの叫びには、単なる助けを求める以上に、イエス様への信仰と希望が込められていました。

 しかし、彼らの叫び声があまりにもうるさかったのでしょう。聖書は、「周りの群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとした」と記しています。

盲人の二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫び続けました。彼らの心には、自分たちの苦しみを見てくださるお方、旧約聖書で約束されたメシアであるイエス様への信仰と期待がありました。周りの群衆の叱りや妨げにも折れることなく、ますます叫び声を上げてイエス様の憐れみを乞い求めたのです。この執念を通して、彼らが持っていた信仰の深さを見ることができます。

この二人の盲人たちの姿に照らして見ると、私たちには信仰におけるイエス様への執念、つまりしつこく慕い求める姿勢が欠如していることに気づくでしょう。皆さんはいかがでしょうか。「イエス様の憐れみを受けなければ私は生きていけません!」という切なる信仰の姿勢を私たちは持っているでしょうか。

彼らの叫び声に、ついにイエス様は反応されます。

ハレルヤ!


2025.1.5 小さな泉の恵み

 「教会行かんが?」

長く教会生活を休んでいたわたしに、息子が何度か言いました。

その頃、わたしは仕事に残業に時間を費やし、心身ともに疲れ果てていました。体調も良くなく、わたしは息子になかなか「行こう」とは言えませんでした。

そんな毎日を過ごすなかで、プツリと糸が切れました。「あ、もう休む…」誰にも相談することなく突然休職することにしました。

何年振りかに訪れた小泉町教会は何も変わらず、わたしたちを温かく迎え入れてくださいました。

礼拝の空気、ミルトスの歌声、神の家族の笑顔、コーヒーの香り…。

わたしたちはすぐに群れに戻ることができました。

忙しさのなかで信仰を忘れ、経済のためだけに働き、疲弊したわたしを強制的に休ませてくださった。そして再び群れに導いて下さったのはイエス様、あなたでしょう?

神が再びわたしを良き場所に置いてくださることをゆだねて、今は小泉町教会の神の家族のもとで羽を休めます。

                            A.M.姉


2024.12.29 牧師室便り

 「すべては主の栄光のために!」

一年間、神の導きと守りの中で、今日まで歩むことができたことを心から感謝いたします。また、神の家族の皆さんの執り成しと、愛に基づく奉仕に心より感謝します。

今年の元日に発生した能登大地震を通して、新たに与えられた使命や働きに応答しつつ、福音伝道という使命を果たすために最善を尽くしてきた一年であったと感じています。私たちは小さな群れではありますが、神の愛と御心に従い、主に喜ばれる働きに励むことができたことを感謝します。

今年を振り返ると、能登町の柳田村の方々との出会いは驚くべき恵みでした。もし能登震災がなければ、私たちは能登町の柳田村という場所を知ることもなく、その地の方々と出会うこともなかったでしょう。しかし、震災の後、神は柳田村の方々との出会いを与え、良き交わりも備えてくださいました。そして、4回にわたる「小さな泉のカフェ」を通して、柳田村の方々と信頼関係を築くことができました。本当に、「神がなさることは時にかなって美しい」という御言葉は真実です。

年末を迎えるにあたり、思い起こす旧約聖書の二つの言葉があります。一つは「エベン・エゼル」、もう一つは「ヤハウェ・イルエ」です。「エベン・エゼル」は「助けの石」という意味で、「これまで主が私たちを助けてくださった」という信仰告白を表します。これは、過去を振り返り感謝する信仰を示しています。一方、「ヤハウェ・イルエ」という言葉は、「主の山に備えあり」という意味で、主がこれからの歩みを備えてくださることを信じて一歩を踏み出す信仰告白です。
この一年を振り返ると、すべての歩みにおいて主が導き守ってくださったことに、感謝せずにはいられません。そして、これからの働きにおいても、神が新たに備え、助けてくださることを信じつつ、主の栄光のために確かな信仰の歩みを続けていきたいと思います。確かな歩みを続けていきたいと思います。… 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

2024.12.29 本日の宣教

 『神の右の手にすがる』

                                                          イザヤ41章10節

~主のよき力に守られて~

主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、

不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。


過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、

悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

あなたが備えている救いを与えてください。


あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、

なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、

いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

 

しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

この世と、

まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら

私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。


あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、

どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。

そしてできるなら、 引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 

深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、

私たちに聞かせてください。

私たちのまわりに広がる、

目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。


主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、

神は必ず私たちと共にいるでしょう」

                   ディートリッヒ・ボンヘッファー

                           (村椿嘉信訳)

 神の右の手にすがることは、私たちの人生における力強い支えです。それは、恐れや絶望の中にあっても、私たちを守り導いてくださる神の確かな約束に基づいています。私たちがこの約束を信じて歩むとき、どのような試練の中にあっても、平安と喜びを見出すことができるのです。ハレルヤ!