『主の憐れみを叫ぶ 』
マタイによる福音書 20章29~34節
2025年、明けましておめでとうございます!!!
愛する神の家族の一年間の歩みの上に、父なる神の平和と恵み、祝福が豊かに注がれますように…。
さて、聖書の中では憐れむこと、特に憐れむ人は幸いだと語られています。なぜでしょうか。それは、この憐れむという姿が、神様を説明する最も大切な姿だからです。憐れむことの重要な特徴として、愛がなければ憐れむことができないという点があります。つまり、私たちに憐れむ心がなければ、誰かを愛することも、誰かのために祈ることも、奉仕することもできなくなります。それほど憐れむ心は大切なのです。
そして、ここで忘れてはならないことがあります。それは、本当の憐れみが必要な人こそ、周りの誰かではなく、私自身が神の憐れみを必要としている存在であるということです。皆さんは自分自身のことを憐れんできましたか。自分自身を憐れまない人は他人を憐れむことができません。自分自身を憐れむ人が神の助けと恵みを求めることになり、そこで真の恵みと赦し、神の愛に触れ新しい人として立つことになるのです。(ex.ペトロ、パウロ、放蕩息子など)
本日の御言葉には、イエス様に憐れみを求めて叫び続けた二人の盲人が登場します。ここでは、イエス様が十字架にかかるためにエルサレムへの旅を続けられる中で、大勢の群衆に囲まれながらエリコを出て行く場面を描いています。
ちょうどその時、道端に座っていた二人の盲人が、イエ スがお通りになると聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びました。彼らの目は見えませんでしたが、「ダビデの子よ」と、まさしくメシアの称号を使ってイエス様に叫んでいることが分かります。彼らの叫びには、単なる助けを求める以上に、イエス様への信仰と希望が込められていました。
しかし、彼らの叫び声があまりにもうるさかったのでしょう。聖書は、「周りの群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとした」と記しています。
盲人の二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫び続けました。彼らの心には、自分たちの苦しみを見てくださるお方、旧約聖書で約束されたメシアであるイエス様への信仰と期待がありました。周りの群衆の叱りや妨げにも折れることなく、ますます叫び声を上げてイエス様の憐れみを乞い求めたのです。この執念を通して、彼らが持っていた信仰の深さを見ることができます。
この二人の盲人たちの姿に照らして見ると、私たちには信仰におけるイエス様への執念、つまりしつこく慕い求める姿勢が欠如していることに気づくでしょう。皆さんはいかがでしょうか。「イエス様の憐れみを受けなければ私は生きていけません!」という切なる信仰の姿勢を私たちは持っているでしょうか。
彼らの叫び声に、ついにイエス様は反応されます。
ハレルヤ!