2022年11月29日火曜日

2022.11.27 本日の宣教

『 待ち望む人に近づかれる主 』(詩編33:20~22)

アドベント(待降節)の四週間の最初のろうそくに火が灯されました。

これから、一本ずつ火が灯され、4週間後のクリスマスへの備えをすることになります。4本のロウソクには、それぞれ意味があると言われています。最初のロウソクが希望、次が平和、その次が喜び、最後に愛を表していると。ですから、今朝は、希望のロウソクの火が灯されたことになります。神の家族もぜひ、一本、一本とロウソクに火を灯しながら、神の独り子イエス・キリストのお誕生に含まれている希望、平和、喜び、愛を黙想しながらアドベントの時を大切に過ごすことができますように…。

アドベントは「到来」、「到着」の意味をもっています。すなわち、アドベント(待降節)こそ、神の独り子イエス・キリストが私とあなたを救うために来られたことを覚えつつ、また、再び来られる再臨の時を待ち望みながら過ごす時でもあるのです。まさしく、アドベントは“初めの時でありながら終わりの時、救い主の誕生のクリスマスを覚える時であり、再び来られる主イエスを待ち望む時”であるのです。

実に、私たちの人生は待ち望むことの連続です。毎日の日常においても絶えず待ち望むことが存在します。仕事や学校に行くためにバスや電車を待ち望み、受験した高校や大学からの合格の通知を待ち望み、愛する人が現れるのを待ち望み、また、収穫を待ち望みながら種を蒔きます。また、サンタクロースお爺さんを待ち望みながら時を過ごしますね。まさしく、私たちの人生には様々な待ち望みで満ち溢れています。

それでは、私たちの信仰生活はどうでしょうか。信仰こそ「待ち望む」ことの連続ではないでしょうか。信仰とは、神の約束を信じてその約束が成し遂げられることを待つことだからです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)」

しかし、「待ち望む」という態度は、今日、あまり人気がありません。人々が大きな関心を払って考えるようなことでもありません。事実、ほとんどの人は、「待ち望む」という態度は時間の無駄だと考えているのが現実です。「忙しいからとにかく動く、何かしながら自分の存在の証明をしようとする。ただ座って待っているだけで何も始まらない」などなど。

特に、インターネットとインスタントの時代と言われる現代だからこそ、なおさら待ち望むことが厳しいことのように感じられてしまうのです。特に日本社会はとても忙しい社会であるため、待ち望むということに慣れてないし、かえって一時も休まないで働くことが美徳となっている社会であります。

しかし、本日の詩人は次のように勧めます。「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。…主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように主を待ち望む我らの上に。(33:20,22)」

私たちが待ち望む理由は、私たちの信じる神への信仰と神からの約束のゆえです。その方の真実さ、その方の誠実さに望みを置いているから待ち望むのです。これこそ、キリスト者の最も強い信仰の姿であり、アドベントを迎えるキリスト者のあるべき姿であります。それに加え、アドベントこそ、私たちが待ち望む時としての意味もありますが、人々の帰りを待ち望まれる父なる神の忍耐と御心を学べる時でもあることを心がけたいものです。ハレルヤ!


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