2019年7月3日水曜日

2019.6.23 牧師室便り



~ 命のある限り、新しい讃美を~

「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し、                  
                 長らえる限りわたしの神にほめ歌をうたおう。”(詩編14612)」

  私は、母の胎内にいる時から教会に通っていた母胎クリスチャンです。今から50年も前、山奥に住んでいたわが家でしたので、町の教会に行くためには、往復5時間の距離を歩かなければなりませんでした。毎主日の礼拝に集うため、雨の日も、雪の日も、真夏の日も休むことなく、母は私が胎内にいた時から赤ちゃんであった私を背負って歩き続けたそうです。何が母をそこまでさせたのでしょうか。

母の話によると、当時のわが家には母が背負いきれないたくさんの問題を抱えていて、イエス様の助けと慰めをいただかなければ生きられなかったそうです。だから母は、毎週教会に行って讃美と祈りの礼拝を献げるうちに、信仰が強められ、イエス様との関係が深められ、どんな試練をも乗り越えることができたと証ししてくれました。とりわけ教会に通っていた4時間に及ぶ道程は、母を真のクリスチャンに変えてくれたそうです。すなわち、往復5時間の道程で歌っていた讃美が母を喜びと希望に導き、その時ささげていた祈りが母を神に結んでくれる通路となってくれたのです。細い山道と荒地を歩くことは寂しいことでしたし、時々不安が襲ってくることもあったけど、“主にすがるわれに悩みはなし、十字架のみ許に荷を下ろせば、歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん、この世の旅路を(新生437)”と讃美を歌うと、いつの間にか人知を超えた平安と喜びが母の心を満たしてくれたそうです。

讃美こそ、キリスト教と他の宗教の大きな違いを現わすものであると思いますね。そう、讃美は嬉しい時だけでなく、悲しい時も、辛い時も、暗闇の中でも自然と心の底から流れてくるものであり、その讃美のただ中でイエス様との交わりをいただけるのです。神の家族お一人お一人も日々生きた讃美を歌うことができますように…。いついかなる時にも讃美できる人の顔からは喜びと感謝が、また確信が伝わってくるでしょう。シャローム!

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