『 わたしたちの国籍は天 』
フィリピの信徒への手紙 3章20節
小泉町教会の皆さんの多くの方はご存知ですが、私の父は日本人、母は中国人です。子どもの頃から日本と中国の平和の架け橋として育つことを期待されました。
母は、湖南省長沙で生まれ、3歳の時に父親の仕事で上海に移り、少女時代を過ごしました。高校時代は、香港のミッションスクールに入学し、寮生活をするとともにキリスト教に出会います。
父は、祖父が開業した海産問屋の日本橋のたもとの家で生まれ、クリスチャンの祖母に導かれて幼少期から聖書に親しみました。商業学校を卒業後三井物産に勤めていたのですが、召集令状によって陸軍重機関銃部隊に配属されました。軍隊の訓練中に重傷を負い、陸軍病院に入院することになり、その入院中に幹部候補生としての試験に受けることを薦められ、下士官として1940年に南京に派兵されました。大虐殺があった南京事変の2年後のことです。
南京で父は、南京日本YMCAに通うようになり、日本YMCA同盟から派遣された主事の導きにより、兵隊でありながら会員となる機会を得て、現地の方々との友好事業に参加していたようです。
母は、上海にいる父親に手紙を託され、シンガポールの華僑の貿易商人と結婚した姉を訪ね、日中戦争勃発により帰国できぬまま中華街に住んでいました。
2年間の南京兵務の後、父はシンガポール侵攻の先遣部隊に配属されることになりました。1942年暮れ火の海となったジョホール街道をマレーシアから母のいるシンガポールに攻め込んでいったわけです。
シンガポールで日本軍は、華僑である中国人の若者を捉え拷問をかけ、多くの若者が虐殺されました。
母の親しかった若者も突然帰らなくなり、母は義理の兄に、その若者の行方を探す手立てがないか相談しました。そこで三井物産と貿易をしていた義理の兄、つまり私の義理の叔父は、日本軍の三井物産系列の陸軍の将校がいることを知り、事務官であった父が紹介されました。
両親の出会いはそこから始まりました。父は憲兵からその青年をそれ以上探すなと言う通達によって、その後すぐにその青年たちが捉えられて殺されているだろうと言うことを伝えたようです。
敵国人同士がこの様に出会い、どのようにして2人が結婚することを誓い合うようになったのかと言う事は定かではありません。 ただクリスチャンであった父は2人が正式に結婚を前提にして付き合うのではなければ付き合うべきではないと言うことを話しあい、結婚することを誓い合います。
父は、1943年に5年間の軍隊の兵役期間が終わり、帰国する前にシンガポールYMCAのそばにある教会で、2冊の中国語の聖書を買い、この二冊の聖書がいつか1つの棚に並ぶことを祈り合い、父は日本に帰国いたしました。 その際に父は、聖書の裏表紙にフィリピの信徒への手紙4章4節「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」のみ言葉を英語で書き、婚約者である母に渡し、日本に帰国したのです。
島田 茂
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