2025年9月26日金曜日

2025.9.21 牧師室便り

 「 たとえ見えなくても 」 

先週、新しいメガネを購入しました。55歳を過ぎてから急激に老眼が進み、近くの文字がはっきり見えなくなったからです。これまで宣教の原稿はwordの10.5ポイントでも問題なく読めていましたが、今では12ポイントにしても見づらく、不便を感じるようになり、思い切って遠近両用メガネを作ることにしました。

ふと、このまま目が悪くなり、もし見えなくなる日が来たらどうだろう、と考えました。おそらくそうはならないでしょうが、もしその時が訪れるなら、私はその弱さを通して、見えないけれど確かな神の光と、天の御国にある栄光と希望を語るのだろうと思います。周囲には迷惑をかけるかもしれませんが、思い起こしたのは盲目の賛美歌作者ファニー・クロスビーのことです。彼女は幼くして視力失いながらも、御言葉を耳で聞き、イエス・キリストに出会いました。そして「天に帰った時、最初に見るのはイエス様」と希望を抱き、生涯にわたり数えきれない詩を残しました。

福音書の主イエスは盲人を癒しつつ、「本当の盲目は誰か」を問いかけられます。体の目が見えないことよりも、霊の目が閉じていることこそが真の盲目なのです。今回の眼鏡を作る出来事を通しても、多くを教えられました。

皆さんはいかがでしょうか。目は元気ですか。見るべきものを見て、神を賛美しているでしょうか。たとえ見えない日が訪れても、失望せず、天の御国を仰ぎ見て証しをする者でありたいものです。そのために今のうちに御言葉を心に蓄えましょう。たとえ目が見えなくても、御言葉が私たちを支え、キリストの愛を伝える力となります。そして肉体の目が衰えても、聖霊によって内なる人の目をさらに澄ませ、日々を力強く歩んでまいりましょう。

シャローム。



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