『 変えられた私 』
テモテへの手紙一 1章13~15節
「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」(テモテ一1:13)
私たちキリスト者の人生は、主イエスに出会う前の自分と、主イエスに出会ってから変えられた自分に分けられることでしょう。ですから、人の人生にもB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini=主の年)があるのです。このことを思うと、今も多くの人がなおB.C.の歴史を歩んでいることに気づかされます。一日も早く、イエス・キリストに出会い、「主の年」であるA.D.の歴史を歩んでほしいと、心から願っています。
聖書の登場人物の中にも、このB.C.とA.D.がはっきりと区分されており、そのことによって確かな証しをしている人物がいます。その人こそ、使徒パウロです。彼は、信仰によって生んだ子テモテに向けて、変えられた自分の人生を、確かな証しとして語っています。
人は、自分の過去を語るとき、つい美しく整えたくなるものです。失敗はなるべく伏せて、成功のエピソードを中心に語ろうとする傾向があります。しかし、パウロはまったく逆でした。むしろ、自分がどれほど罪深く、赦されるに値しない罪人であったかを率直に語ることで、神の憐れみを証ししようとしたのです。
パウロのように、私たち一人ひとりにも「変えられる前の自分」があります。それは、誰にも言いたくないような罪や失敗、傷や痛みを含んでいるのかもしれません。けれども、 神の恵みに出会うとき、それらすべてが「過去の出来事」ではなく、「神の憐れみを証しするための物語」へと変えられていくのです。
その中でも、「わたしは、その罪人の中で最たる者(頭)です」(1:15)という言葉には、パウロの恵みに対する感動とへりくだりが表れています。
愛する皆さん、主イエスが来られた目的は、「罪人を愛し、救うため」なのです。そして、その福音の対象の中に、パウロ自身が含まれていることは、言葉では言い表せないほどの恵みでした。神を冒涜し、迫害し、暴力を振るっていた自分、神の愛を受けるには最もふさわしくないと思われる自分こそが、その福音に包まれている。そのことにパウロは驚き、感動をもって応えているのです。
私たちもまた、この恵みの中に生かされています。神の目に正しくなろうとする前に、まず「自分がどれほど罪深い者であったか」を正直に受け止める必要があります。そしてそのうえで、「それでも私は赦され、変えられつつある」という現在の恵みに目を向けることが求められているのです。
「変えられた私」、これは自慢ではなく、主イエスの十字架の憐れみへの告白であり、主イエスが私を変えてくださり、証し人として立ててくださったという確信の証しなのです。そして、変えられたというのは完成形ではなく、今もなお変えられ続けているという、現在形の恵みを生きる信仰告白なのです。ハレルヤ!