2025年9月1日月曜日

2025.8.31 牧師室便り

  「御言葉、御言葉、その上に」

今日で厳しい暑さの8月が終わり、明日から新しい9月が始まります。9月に入れば、この暑さも少しずつ和らいでいくことでしょう。

日本バプテスト連盟では、毎年9月を「教会学校月間」として大切に守っています。教会学校はバプテスト教会の始まりから最も重んじられてきた働きです。その対象は子どもたちだけではなく、大人を含めた神の家族すべてであり、年齢に関係なく、天の御国に帰るその時まで御言葉を学び続け、信仰の家を御言葉の上に建てていくことを目的としてきました。

小泉町教会の教会学校も、大人の皆さんの積極的な参加によって大きく祝福されています。まだ参加されたことのない方も、ぜひ礼拝前の教会学校に加わり、御言葉の恵みを霊の糧としていただきたいと願っています。

さらに今週からは、第2学期の聖書の学びが再開されます。現在はヨハネの黙示録を学んでおり、主イエスが七つの教会に語られた御言葉を通して、それぞれの教会の姿を自分たちの教会に重ね合わせる、恵み豊かな時間となっています。聖書の学びに関心のある方、御言葉を深く知りたい方は、ぜひお集まりください。

繰り返しお伝えしているように、教会の最大の力は御言葉の上に立つことにあります。御言葉を土台としない教会は、どれほど立派な活動をし、多くの人が集まっても、ひとたび試練が訪れれば崩れてしまいます。しかし、御言葉を土台として立つ教会は、どんな試練や嵐、台風に襲われても倒れることはありません。むしろ試練を通して強められ、成長を遂げるのです。

願わくは、この9月からの新しい礼拝、教会学校、そして楽しい聖書の学びにおいて、聖霊なる神が時にかなった知恵と力と助けを、御言葉を通して豊かに示してくださいますように。

シャローム。



2025.8.31 本日の宣教(交換講壇)

  『 見ないで信じる者は幸いである 』

ヨハネによる福音書20章24~29節

人間は、目に見える存在が自分の近くにいてくれたり、目に見えるものが自分の手元にあると安心できるのかもしれません。そして、信じやすいのかもしれません。

私たちの信じる神様は、どうでしょうか。

目には見えませんが、いつもすぐそばにいて下さることを私たちは知っています。

こどもの頃にこんな賛美歌を習いました。


♪美しいこの空を 愛らしいこの花を

浮かんでる白い雲 香り良き青草を

じっと眺めるだけで ただ眺めているだけで

ほら君もわかるでしょ 神様がわかるでしょ


この世界を見たら、神様の存在が分かる。


ある生物学者は、遺伝子の構造や生命の仕組みの精巧さを目の当たりにして、

これらは、偶然ではありえない この根底には、偉大なる何かが存在する 「Something Grate」の存在を提唱しました。

生物自身の進化や、人間業ではどうにも説明のつかないことがあるのだということ。

この学者は、「神様」とは呼んでいませんが、「Something Grate」偉大なる何かが存在するのだと言います。

「見ないで信じる者は幸い」とイエス様は言われました。聖書でいう「幸い」とは、私の幸でもあり、同時に「神様の幸」でもあります。私が神様を信じて歩むことを、神様は喜ばれご自身の「幸」とされます。                                              

                       T.A.姉(金沢キリスト教会)


2025.8.31 小さな泉の恵み

 『聖書が重くならないように』

実はまだリビングライフをやっています。1年の定期購読にすると1か月おまけなので、2019年1月からの定期購読が2025年度は5月更新でした。約半年ぶんお得になっています。

 ご存知のとおり、聖書には『安心』して読み通せる箇所はなさそうです。旧約はもちろん新約でも、ちょっと読み進めば難解な箇所、ズバっと突かれる箇所に必ず行きあたります。そこを飛ばさず、コッテリ読ませてくれるのがリビングライフのいいところ。

 小泉町教会での5年の間に培われたリビングライフ日課。今の教会までの距離や奉仕のスケジュールや教会の聖書日課もあったりして、リビングライフだけをゆっくり黙想する時間はなかなかありませんが、最低やるのは1)2回声に出して読み2)解説をざっと見て 3)三回目読んで 4)エッセイをざっと見て5)日々の祈りを読みます。これだけでも毎日続けていると、その日遅くなっても「いかん、やっとかないと」と急いでひっつかんで開くことができます。「片手でつかめる一冊の重さ」。小泉町教会に来たばかりで日課になじめなかったころ、「あとでまとめて読もう」と思っても、放置日数とともにその一冊が重くなり、新品のカドは固くページの縁は鋭くなって行った経験がありますから、この変化は確かです。        

リビングライフの一冊が軽くなると、聖書そのものも手に軽くなり、ほかの聖書日課などともいろいろとつながります。そして小泉町教会との距離も近く保たれているに違いありません。たとえ将来教会の外観が変わっていても...いやそれまでには再び訪ねたい帰りたい。   

                            S.M.姉

2025年8月25日月曜日

2025.8.24 牧師室便り

 「 一人ひとりが証し人になる 」

今月は夏休みもあり、牧師が三度、講壇に立つことができません。本日は金沢教会の要請に応えて宣教奉仕に参り、次週は五週目の礼拝のため、交換講壇として福井教会に出かけます。

このように八月は特別な事情も重なり、やむを得ず講壇に立てない状況となりました。以前から皆さんと話しているように、できる限り「月に一度以上、牧師不在の状態を作らない」ことを守っていきたいと願っています。

そこでお願いしたいのは、お一人お一人が生活の中で経験したイエス・キリストを証しする習慣を身につけていただきたい、ということです。もちろん、その中心には御言葉を据えることが大切です。講壇で説教や証しを語るとは、単に日常の出来事を紹介することではありません。そこに御言葉が土台としてあり、…「この御言葉が私の生活にこのように成就しました」「この御言葉によって励まされ、神の御業を成すことができました」「神は御言葉の通りにご自身を現してくださいました」と証しする時、それが真に御言葉に基づいた証しとなります。

牧師だけがイエス様を伝えるのではありません。執事だけが御言葉を語るのでもありません。信徒一人ひとりが、体験した恵みや御言葉から受けた感動、そこから得た知恵と力を分かち合うところに、本当の恵みがあります。もちろん、御言葉に基づかず、ただ自分の経験を無闇に語ることは講壇にふさわしくありません。それは交わりや食卓の中で分かち合うべきものです。

私は今後も、無牧師状態の金沢教会を定期的に訪れるでしょうし、時には他の地域に出かけることもあるでしょう。その際、まず執事の皆さんが牧師に代わって御言葉を語る器として備えられることを願います。また、信徒の皆さんも、自らの体験した神の恵みを喜びをもって証しできるよう備えていただきたいのです。そのような教会は、どのような試練にあっても揺るぎません。サタンが群れを倒そうとしても決して倒れません。なぜなら、その教会が御言葉の上に立っているからです。聖霊によって御言葉の上で一つとなる教会を、サタンは恐れ、逃げ去ってしまいます。

願わくは、私たちの教会が御言葉によって証しの建物を建てていく働き人で満たされますように…。シャローム。



2025.8.24 本日の宣教

 『 奉仕するもの ~執事の証し~ 』

                    マタイによる福音書12章28節~31節

『㉘…イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 ㉙イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。㉚心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 ㉛第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」』(マルコによる福音書12:28~31)

近頃、執事という言葉がよく聞こえてきますが、そもそも執事とは何する人?というところから、本日、証しの機会を与えられたので、執事について少し話そうかと思います。   

小泉町教会では、毎年2月中旬になると週報の宣教の言葉が書かれている一番上に、執事選挙の告示が掲げられます。それから1カ月ほど後に実際に選挙が行われ5人の執事が選出されます。                  

その選挙の時に閔牧師が必ず言われることがあります。『執事選挙は人気投票ではありません。神が働き手として選ばれるのです。』 私たちはその言葉を聞き、神聖な 気持ちで選び、その結果選ばれた人達はその言葉を心に刻み、1年間、奉仕の先頭に立ち、教会のため、兄弟姉妹のために支えるという気持ちで、心を込め奉仕をしています。自分を低くし、奉仕は率先して行うということです。ですから執事は上に立って教会を引っ張るリーダーと思われがちですがそうで奉仕する者としての役割が大きいのです。

もちろん執事会を開いてそこで主に牧師が立案したものを話し合った後、信徒会で提示されてそれを審議したりするという順序になりますが、それは便宜上そのような形になっているので、決して教会の中での序列ではありません。なぜなら教会はイエス様の体でありイエス様のもとで兄弟姉妹は牧師も含めすべてが平等だからです。そこに序列があるはずがありません。奉仕・礼拝する者としてあるのです。ただ、教会の大切な礼拝を導き、群れを養う監督の務めを担う者として牧師が立てられていますので、序列によるのではなく、牧師が教会の代表として仕える存在であると言えると思います。その牧師を支えるのも執事の大切な役割の一つです。

そして、何と言っても決してなくしてはいけないものがあります。それが冒頭に掲げた御言葉です。それは奉仕にとっても生きて行く上でも決してなくしてはいけない大切なものです。 『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 ㉛第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。』この御言葉を神の愛を心に刻み、歩いていきたいものです。    

                                  S.Y.姉


2025.8.24 小さな泉の恵み

  『全国牧師配偶者会の恵み』 

小泉町教会の愛する皆さま、お元気でしょ うか。私たちは山形に来て4年目となり、毎日守られ元気に過ごしています。皆さまのお祈りに感謝いたします。私は5月29日〜31日に行われた「全国牧師配偶者会」に初めて参加してきました。今年度は、東北連合配偶者会が幹事担当となり、福島で開催されました。今回、特に心に残っていることは、東日本大震災の被災地の現状を見て学ぶことができたことです。福島浜通り地方の、原子力災害伝承館と被災遺構、請戸小学校を見学することができました。私自身、被災地を訪れることは初めてで、見るもの聞くもの全てがはじめて知ることばかりでした。震災から14年がたった今も、復興の途中であり、悲しみの中にある方が今もなお大勢おられ、これからも祈り寄り添っていくことの大切さを皆さんと分かち合うことができました。実際に現地で見ることでしか、聞くことでしか知ることのできないことがあることを思わされました。そして、全国の配偶者の方々と深い交わりができたことも感謝でした。初めてお会いし  た方や、福岡でお世話になった方々との再会、また福井教会の平良民枝さんとも再会もでき、素晴らしい時を過ごすことができました。新しい出会いと学びに感謝した2泊3日でした。小泉町教会の能登被災地支援活動のためにもお祈りしております。

                           山形キリスト教会  宮田 幸


2025.8.17 牧師室便り

 「平和を叫ばなくてもよい時代を」

「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」(イザヤ57:19)

平和、平和、…世界各地で今も叫び続けられ、求め続けられている言葉です。しかしいつになったら平和という言葉を叫ばなくてもよい時代が来るでしょうか。

聖書は、真の平和の源を明確に示しています。それは、単に戦争が終わることや争いがなくなることではなく、神と人との関係が回復することです。人間の罪によって断ち切られたその関係が、キリストの十字架の贖いによって回復されたとき、私たちは心の中に、また生き方の中に平和を持ち体験して生きることができます。パウロは「キリストは私たちの平和である」(エフェソ2:14)と告げています。平和はまず神との和解から始まり、その和解が人と人との間、また人と自然世界の関係をも変えていきます。

しかし、キリスト教が世界各地に宣べ伝えられているのに、世界は依然として争いや分裂に満ちていますし、さらに争いと分裂が激しさを増し広がっている状況です。どこを見ても希望の兆しは見えず、絶望の暗闇に覆われている世界です。

主イエスはキリスト者に向けて「平和を実現する人」(マタイ5:9)として召されています。それは受け身で待つことではなく、日常の中で小さな平和の行いを積み重ねることです。赦しを選び、対話を続け、弱い者の声に耳を傾けること。自分の正しさを振りかざすよりも、へりくだって相手と共に歩むこと。これらは世界を一気に変える力には見えないかもしれませんが、神の国の価値観では小さな種が大きな木に育つように、やがて実を結ぶのです。

平和という言葉を叫ばなくてもよい時代、それは、平和の主が再臨され神の国が完全に実現するときに訪れます。しかしその日まで、私たちは地上での使命を果たします。神との平和を土台に、隣人との平和を築き、世界のうめきに耳を傾けながら歩む。そのようにして、私たちは「平和を実現する人々」としてこの時代に生きるのです。シャローム。