2025年7月31日木曜日

2025.7.27 牧師室便り

 「 昼の太陽から、夜の月から」

「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主があなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。」(詩編121:6~7)

大変な猛暑が続く日々ですが、皆さんお元気でしょうか。先週、小泉町教会では、2年ぶりにファミリーキャンプを立山青少年自然の家で開催することができました。参加者は当初の予定より少なく17名となりましたが、いつものように充実した内容となり、ゆったりと過ごせるプログラム構成の中で、本当に恵まれた時を持つことができました。神の家族の皆さまのお祈りに、心より感謝申し上げます。

今回のキャンプを通して、参加された方々から「今後のファミリーキャンプの開催場所を変更する必要があるのではないか」との声も寄せられました。ぜひ来年に向けて、皆さんと共に話し合いながら、神の家族がより参加しやすく、喜びと恵みに満たされるキャンプを築いていきたいと願っています。

また、先週24日(木)には、第10回目となる「小さな泉のカフェ」が柳田公民館で開催されました。とりわけ今回は、7月でちょうど一年を迎えた節目でもあり、柳田公民館の梅館長や南主事をはじめ、多くの町の方々から感謝の言葉をいただき、感動と恵みが一層深まるひとときとなりました。これからも主の最善を期待しましょう。
神の家族の皆さん、これから本格的な夏が始まります。旅行に出かけられる方、またさまざまな夏の計画を持っておられる方々にとって、忙しい日々が続くかと思いますが、どうか体調管理に十分お気をつけください。
聖書の御言葉にあるように、「昼の太陽からも、夜の月からも」主が守ってくださることを信じつつ、この夏が生ける神との豊かな交わりの時となりますように。神の家族への主の御手の守りをお祈りいたします。シャローム。

2025.7.27 本日の宣教

 『 迷い出た羊を呼び戻そう 』

                  ヤコブの手紙 5章19~20節

興味深いことに、ヤコブは当時の一般的な手紙の結びのあいさつを記していません。彼は「わたしの兄弟たち」と呼びかけながら、彼らに主イエスの御心を抱くようにとチャレンジします。

ヤコブは、「あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいる」と語ります。初代教会には、ユダヤ教からキリスト教に改宗したものの、患難や迫害に耐えられず再びユダヤ教に戻る人、あるいは異端思想に惑わされ、真理を離れて誤った道へと進んでしまう人が多くいたようです。つまり、これは「教会の外の人々」ではなく、「教会の中の神の家族の兄弟姉妹」のことです。

長く信仰生活をしていても、またかつては熱心に仕えていた人であっても、時には「真理から迷い出てしまう」ことがあります。人生には様々な試練があります。病、経済的困難、人間関係のつまずき、そして内面の葛藤…。その中で、人は知らず知らずの内に心を閉ざし、教会からも、神からも、離れてしまうことがあるのです。

ヤコブは次に、「だれかがその人を真理へ連れ戻すならば」と語ります。ここで注目すべきは「誰か」という言葉です。これは特別な人、牧師や執事だけではありません。すべての神の家族、兄弟姉妹への呼びかけです。

主イエスも、迷い出た一匹の羊を探しに行く羊飼いのたとえ話をされました(ルカ15章)。99匹を残してでも、1匹を探しに行く。なぜなら、その1匹も神の目には尊く、愛されている存在だからです。 ヤコブは「その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる」と宣言します。これはなんという力強い言葉でしょうか。ここで「死」とは単に肉体の死ではなく、神から切り離された永遠の死、霊的な滅びを指しています。そして「多くの罪を覆う」という表現には、旧約聖書の贖いの思想が含まれています。すなわち、神の憐れみが罪を覆い、赦しが与えられるということです。つまり、人を一人連れ戻すことは、単なる「教会の出席者を増やす」ことではありません。それは、永遠の命へと続く道を再び歩ませる、神の大きな働きとなるのです。その一歩を、神はあなたを通してなさろうとしておられるのです。

愛する神の家族の皆さん、私たちは皆、神の羊であると同時に、互いの羊飼いでもあることを覚えましょう。完全な羊飼いはただ一人、主イエス・キリストだけです。しかし、主はご自身の群れの世話を、私たちに任せておられるのです。

迷った羊を探しに出かけて行くのは、大変なことかもしれません。でも、それをするのは、「義務や責任」ではなく、「愛と憐れみ」から出るものです。「迷い出た羊を呼び戻す」。それは、主イエスの心であり、私たちの使命でもあることを心がけましょう。今日、心に浮かぶあの人のことを覚えながら、まず祈り、次に手を差し伸べる一歩を踏み出しましょう。神はその一歩を祝福し、きっとその先に、喜びの再会と回復の時を備えてくださることでしょう。

ハレルヤ!


2025.7.27 小さな泉の恵み

 7月20日、賛美礼拝の後、立山青少年自然の家へ向かい、ファミリーキャンプに出かけました。

山道をドライブしながら、「こんなに遠かったかな」と思いました。以前よりも遠く感じたのは、やはり私が83歳という年齢になったからでしょうか。

深い緑の木々に囲まれ、セミの鳴き声が響く自然の道を歩くのは、とても気持ちのよい時間でした。開会礼拝の後は、賛美やビンゴゲームなどで楽しいひとときを過ごしました。

夕食後のキャンプファイヤーでは、美しい夜空の下、炎が夜空へと燃え上がる火を囲みながら、マシュマロを焼いて食べました。その後、兄弟姉妹と証しを分かち合い、素晴らしい時を過ごしました。

入浴後の懇談会では、久しぶりにビールを飲みながら、夜中の12時頃まで語り合いました。

21日(月)は、エゼキエル書3章1〜15節のみ言葉を通して、「神様はどのようなお方か」「どのみ言葉が心に留まったか」について話し合いました。私もまた、神のみ言葉を食べて心満たされ、強くされて、周りの人々に伝えることが出来るようになりたいと願いました。

                               N.Z.姉

2025年7月26日土曜日

2025.7.20 牧師室便り

 「 新しいビザ申請を前にして 」

日本に来て、もう30年が経ちました。私の人生の半分以上を日本で過ごしていることになります。

最初に来た時は留学生ビザで、毎年更新しながら延長してきました。そして牧師としての仕事を始めてからは、3年ごとの就労ビザを取得してきました。その間に永住権を取ろうと思ったこともありましたが、今の3年ごとのビザでも特に不便を感じることがなかったため、そのまま更新を続けてきました。

しかし最近になって、3年ごとのビザ更新というよりも、神様に約束した「日本で骨を埋める」という思いを成就するために、永住権を取得しようと、新たなチャレンジを決意しました。

ところが、永住権を申請するための書類を調べてみたところ、以前に比べて、求められる資料の量が倍以上に増えていて、今の入国管理の厳しさに驚かされました。

それでも一つ一つ必要な書類を整え、準備を進めているところです。最近では、銀行口座一つ開設するにも、いろいろな制限があることに気づきました。

何もかもが複雑になり、厳しくなってきているように思います。科学文明が発達すれば、もっと便利で簡単になるはずなのに、実際はかえって複雑になっているようで、理解に苦しみます。

もし私たちが天の御国に入るときにも、同じような手続きが必要だとしたら、いったい誰が天国に入れるでしょうか。その書類を準備することの大変さのゆえに、多くの人が途中であきらめてしまうかもしれません。

しかし、どうか安心してください。2000年前から今まで、私たちの救いに必要な資格、また天国に入るための「書類」は、一度も変わっていません。イエス・キリストの十字架の贖いと復活の命を心から信じ、イエス・キリストを「わが主」「わが救い主」としてお迎えするならば、誰であっても、どんな人であっても救われ、

天国に入ることが許されているのです。シャローム。



2025.7.20 本日の宣教

 『 変えられた私 』

              テモテへの手紙一 1章13~15節

「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」(テモテ一1:13)

私たちキリスト者の人生は、主イエスに出会う前の自分と、主イエスに出会ってから変えられた自分に分けられることでしょう。ですから、人の人生にもB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini=主の年)があるのです。このことを思うと、今も多くの人がなおB.C.の歴史を歩んでいることに気づかされます。一日も早く、イエス・キリストに出会い、「主の年」であるA.D.の歴史を歩んでほしいと、心から願っています。

聖書の登場人物の中にも、このB.C.とA.D.がはっきりと区分されており、そのことによって確かな証しをしている人物がいます。その人こそ、使徒パウロです。彼は、信仰によって生んだ子テモテに向けて、変えられた自分の人生を、確かな証しとして語っています。

人は、自分の過去を語るとき、つい美しく整えたくなるものです。失敗はなるべく伏せて、成功のエピソードを中心に語ろうとする傾向があります。しかし、パウロはまったく逆でした。むしろ、自分がどれほど罪深く、赦されるに値しない罪人であったかを率直に語ることで、神の憐れみを証ししようとしたのです。

パウロのように、私たち一人ひとりにも「変えられる前の自分」があります。それは、誰にも言いたくないような罪や失敗、傷や痛みを含んでいるのかもしれません。けれども、 神の恵みに出会うとき、それらすべてが「過去の出来事」ではなく、「神の憐れみを証しするための物語」へと変えられていくのです。

 その中でも、「わたしは、その罪人の中で最たる者(頭)です」(1:15)という言葉には、パウロの恵みに対する感動とへりくだりが表れています。

愛する皆さん、主イエスが来られた目的は、「罪人を愛し、救うため」なのです。そして、その福音の対象の中に、パウロ自身が含まれていることは、言葉では言い表せないほどの恵みでした。神を冒涜し、迫害し、暴力を振るっていた自分、神の愛を受けるには最もふさわしくないと思われる自分こそが、その福音に包まれている。そのことにパウロは驚き、感動をもって応えているのです。

私たちもまた、この恵みの中に生かされています。神の目に正しくなろうとする前に、まず「自分がどれほど罪深い者であったか」を正直に受け止める必要があります。そしてそのうえで、「それでも私は赦され、変えられつつある」という現在の恵みに目を向けることが求められているのです。

「変えられた私」、これは自慢ではなく、主イエスの十字架の憐れみへの告白であり、主イエスが私を変えてくださり、証し人として立ててくださったという確信の証しなのです。そして、変えられたというのは完成形ではなく、今もなお変えられ続けているという、現在形の恵みを生きる信仰告白なのです。ハレルヤ!


2025.7.20 小さな泉の恵み

 ~放課後等デーサービスで~

僕はYMCAの学童保育で支援員として働いてきたのですが、今年度から火曜、水曜、木曜の週3回で放課後等デーサービスで働いています。

放課後等デーサービスは学童保育と同じで学校を下校した子ども達が過ごす場所です。

学童保育とは違い放課後等デーサービスには障害のある子ども達が来る場所です。

障害のある子ども達はできないことも多いけれど他の人とは違う感性を持っていてその子達から気づかせられることも多くあります。

またこの子達は人の悪口を言ったりすることはない優しい子達で、この子達といるとこちらも優しい気持ちになります。

しかしこの子達が生きていくには今の社会は生きづらく、困ることも多くあります。

この子達の上に神様の恵みがあり輝ける人生を過ごせるように祈ります。

                             S.H.兄

2025.7.13 牧師室便り

 「 母からの思わぬ贈り物 」

先週のある日、義理の母が日本にいたときに使っていたカバンを片付けるために中を確認したところ、母が長年にわたって大切に書き続けていた帳面が出てきました。一つ一つ、母が大切に使っていたお金の項目がぎっしりと記されており、その帳面をめくっている途中、千円札の束が出てきたのです。

妻と私は驚きながらその中身を確認したところ、それは母が日本に来る前に銀行から大切に引き出してきたお金でした。

おそらく母は、主日礼拝の献金として毎回千円ずつ献げるために準備していたのでしょう。しかし、思いがけず怪我をされ、やむを得ず帰国することになってしまいました。そのため、この帳面の中の千円札の束は使われることなく、そのまま挟まれていたのです。

義理の母は今年1月、95歳で天に召されました。今は天にあって、天国での祝福を受けながら、地上の家族のために祈ってくれていると信じています。私たち夫婦は、この母が大切に備えていた献金を、そのまま感謝献金として献げることにしました。

最近、教会の会計状況は厳しく、私たちも神の助けと祝福を祈り求めています。これまで小泉町教会を支えてこられた主が、時にかなって奇跡的に必要を満たしてくださったことを信じ、今回の義母にまつわる出来事も、その一つとして受け取りました。もちろん、大きな額ではありませんでしたが、神は義理の母の献金に込められた大切な思いを、私たち夫婦へのプレゼントとして与えてくださったのだと思います。

愛する主は、小泉町教会を深く愛しておられます。そして、これまでも時にかなって必要を満たしてくださってきました。これからも神は、小泉町教会の歩みと、福音伝道の働きを必ず祝福してくださると信じ、私たちも主に献げる歩みを続けていきたいと思います。シャローム。