2026年1月4日日曜日

2026.1.4 本日の宣教

  『 あなたへの神の熱心  』

                テサロニケの信徒への手紙一5章23~24節

明けましておめでとうございます!!!

主の御名を賛美いたします。新しい年、2026年が始まりました。私たちは今、真っさらな時間という贈り物の前に立っています。この時期、多くの人が「今年こそはこうありたい」という目標を立てるものです。「一日も欠かさず聖書を黙想したい」「信仰生活を整えたい」「もっと忍耐強くなりたい」「愛をもって隣人に接したい」…。こうした願いは、私たちが神を信じる者として、より良く生きたいと願う貴い志であると言えましょう。

本日のテサロニケの信徒への手紙には、私たちの「人間的な熱心さ」を遥かに凌ぐ、「神の熱心」が記されています。パウロが手紙の結びに記したこの力強い祝福の言葉を通して、新しい年を歩み出す私たちが、どこに真の希望を置くべきかを共に深く味わいたいと思います。

パウロはまず、「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」と祈ります。

ここで最も重要なのは、「聖くなる」というプロセスの主語が、私たちではなく「神御自身」であるということです。私たちは信仰生活を、自分の努力で階段を一段ずつ上っていくようなものだと考えがちです。しかし、聖書が語る「聖さ」とは、人間が自分を磨き上げることではなく、神ご自身がその者を聖別し、御心にふさわしく造り変えていかれるという神の積極的で熱心な働きを指します。 次に、パウロは具体的な祈りを献げます。「また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り……」。

神は、私たちの信仰心だけを見つめておられるのではありません。心の奥深い思いや、揺れ動く感情、思うようにならない体も含めて、私たちの全存在を守ろうとされます。私たちはしばしば、自分の弱い部分や不安定な部分を神から隠そうとします。しかし神は、そのような部分も含めた「あなたと私の全存在」を招かれたのです。すなわち、神の関心は、私たちの全人格、全生活に及んでいるということです。神の熱心は、私たちの「霊」を救うだけでなく、私たちの「魂」の傷を癒やし、そして私たちの「体」の健康や日々の生活の営みまでも、尊いものとして見つめておられます。

神の熱心は、私たちの「欠け」を、愛をもって包み込み、主イエス・キリストが再び来られるその完成の日に「非のうちどころのないもの」とされることに至ります。今はまだ、失敗もすれば、罪を犯すこともある私たちです。 しかし、自分の不完全さに絶望するのではなく、神の真実と神の熱心によって変えられる自分自身を見つめながら新しい歩みを始めましょう。

「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」ハレルヤ!


2026.1.4 小さな泉の恵み

 人生は神さまと歩くすごろくのようだと思います。

今年の4月から、末っ子が社会人になる予定です。親としての大きな役目は一区切りです。「ここまでよく来たね」と、神さまに声をかけてもらったような気がします。

進んだマスも、立ち止まったマスも、戻ったマスもありましたがいつも神さまはそばにいてくださいました。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記1:9)

でも、まだ上がりではありません。

これからは、自分の歩みと人生も大切にしながら、さいころの目は神さまにゆだねて、強く雄々しく進んでいこうと思います。

                           A.M.姉

2025.12.28 牧師室便り

「愛に結ばれて歩む教会」 
2025年の一年間続けてきた主日礼拝も、本日で最後を迎えます。52週にわたる礼拝が、神の恵みと守りの中で、神の家族とともに守られてきたことを、心から感謝します。少しずつ礼拝の出席人数が増えていく一方で、さまざまな病のために来ることができなくなった方々のことを思うと、寂しさも覚えます。
神は私たちを、キリストの体の一部分として招き入れてくださり、小泉町キリスト教会の群れとして主を礼拝し、神の国の福音を宣べ伝える使命を与えてくださいました。この一年、私たちはどのような礼拝者だったでしょうか。主イエスに喜ばれる歩みを続けることができたでしょうか。皆が自信をもって「はい、そうです」と言うことはできないかもしれません。それでも私たちは、与えられた時間、与えられた力、与えられた賜物を用いて、心を込めて神に仕えてきたと言えるのではないでしょうか。
今日まで、神のご家族お一人お一人が足並みをそろえて共に歩み、支え合ってくださったことに感謝します。教会は、牧師だけでも、執事だけでも、また信仰の強い人たちだけでも成り立つものではありません。表に立つ人だけでなく、見えないところで祈りと奉仕を献げてくださる方々とともに、キリストの体は建て上げられていきます。
神の家族の証しが積み重なって、今の小泉町キリスト教会の物語があります。その物語は、これからも神の導きの中で書き加えられていくことでしょう。私たちの先を歩まれ、しんがりとなってくださる神を賛美しつつ、共に愛し合うよう招かれた神の家族に感謝します。
皆さんを心から愛し、祝福します。よいお年を!


2025.12.28 本日の宣教

 『 キリストに倣い 』~一年の恵みを数えつつ

               フィリピの信徒への手紙 2章1節~5節

「年末主日の祈り」

父なる神よ、過ぎ去った日々を思い起こします。

幸福な日々を与えられ、新しいことを学び、新しい友を与えられ、古き友と親しみました。今、思い起こし、喜びに満ちて感謝を捧げます。

困難なことに直面し、苦しみ、しかしそれによって賢くなり、失敗や失望を一つ一つ味わって謙遜な心になり、危険に出会って私たちがあなたをどれほど必要とするかを教えられました。今、思い起こし、喜びに満ちて感謝を捧げます。

仕事に失敗し、誘惑におちいり、人々を傷つけ、 欺き、失望させ、今になって後悔していることを語り、行ないました。今思い起こし、悲しみをもって懺悔します。

この一年が心躍らせ、興奮に満ちた成功の年であった者に、感謝の思いを与えてください。 悲しい思いで一年を終ろうとしている者には、挫けない勇気と慰めを与えてください。 この一年、特別なことが起こらなかった者には、 全ての祝福が日々のわざの中にあることを教え励ましてください。

それぞれに与えられた人生の教訓を通して、さらに尊ぶべきことに思いを高めることができるようにしてください。

                            作:W・バークレー  

この一年を振り返るとき、私たちはまず感謝をもって神の前に立ちたいと思います。喜びの出来事も、思うように進まなかった歩みも、そのすべての中で、主は私たちを教会として共に歩ませてくださいました。そんな中で示された御言葉がフィリピ教会へのパウロの言葉でした。

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(フィリピ2:1-5)

「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」・・・キリストに倣うことこそ、クリスチャンが常に心がけるべき生き方です。大切なことは、キリストに倣う歩みとは、完成された姿を示すものではなく、クリスチャン同士が共に感謝し、共に悔い改め、共に希望をもって歩んでいく歩みであるということです。

この一年、私たちを教会として保ってくださった主に感謝しつつ、キリストに倣う姿勢を常に保ちながら、共に歩み続ける神の家族でありますように…。シャローム。


2025.12.28 小さな泉の恵み

 私は、クリスマスが年末にあることをとても感謝しています。忙しく過ぎていった一年を振り返るこの時期、うまくいかなかったことや、心が疲れてしまった出来事を思い出すこともあります。そんな一年の終わりに、低い私たちのところに来てくださったクリスマスのイエス様の愛を覚えることで、疲れた心が励まされ、新しい一歩を踏み出す力が与えられます。

実は、この一年間ずっとクリスマスだったのだと思います。家族との時間や、教会での礼拝や奉仕を通して、その愛に支えられてきたことを思い出します。特に、教会の家族と共に神様の手と足として能登支援の奉仕に関わることができたことを、心から感謝しています。その経験を通して、神様の愛が人を支え、つないでいく力であることを教えられました。

一年を締めくくるこの時期に、クリスマスを通してイエス様の愛を豊かに受け取り、その愛に励まされながら新しい年へと向かう力をいただけることを感謝しています。これからの歩みの中でも、その変わらない愛によって導いてくださる主を、心から賛美します。

                            H.S.姉

2025.12.21 牧師室便り

 「分断の世界に生まれるイエス 」

神の独り子をお与えになったクリスマスの恵みと祝福が、神の家族お一人おひとりの上に豊かに注がれますようにお祈りいたします。

しかし、本来、喜びと希望を分かち合うべきこの季節に、私たちは深い悲しみを伴う出来事に向き合わなければなりません。それは、先週オーストラリアで起きた銃乱射事件のためです。まさしくユダヤ教の祭りハヌカの参加者を狙ったテロであり、多くの尊い命が奪われてしまいました。

信仰や文化を祝う場が暴力によって踏みにじられたことは、決して許されるものではなく、強い憤りと痛みを覚えます。憎悪や偏見が人を傷つけ、社会を分断する現実を、私たちは重く受け止めなければなりません。だからこそ今、恐れや対立ではなく、思いやりと連帯、そして人間の尊厳を守る決意が求められています。

この世の平和の王としてお生まれになったイエス様の誕生を祝うこのクリスマスだからこそ、私たちは聖書の御言葉に耳を傾け、人種の違い、宗教の違い、言葉の違い、国の違いを超えて、すべての人を救うためにこの世に来られたイエス様を心に迎え入れたいと思います。そして、犠牲に遭われた人々や、今もなお戦争や紛争が絶えない地域に生きる方々の上に、クリスマスの平和と喜びの知らせが届きますようにと祈ります。
また、小泉町教会の神の家族お一人おひとりも、周りの方々との違いを認め合いながら、イエス様の目で互いを見つめ、飼い葉おけと十字架を通して示された神の愛と謙遜、そして犠牲のメッセージを、言葉と行動をもって伝えることができますようにと祈ります。
メリークリスマス!!!

2025.12.21 本日の宣教

   『 アーメンの後に来るもの 』

                ルカによる福音書2章8~20 節

メリークリスマス!!!

私は前回、アドベントの季節が、私たちの内に「アーメン」を生み出す「アーメンの季節」であることを分かち合いました。「本当にそうです」「御心のままになりますように」という、神への全的な信頼を込めた告白の言葉が「アーメン」です。それは単なる形式的な結びではなく、心と人生を神に委ねる決断の表明なのです。

救い主を待ち望むこの期間は、静かに心を整え、神の約束に耳を澄まし、「アーメン、主よ、あなたのみ心を受け取ります」と応答するための時です。闇が深まる冬の中で灯される一本一本のろうそくは、神の光を信じて待ち望む信仰そのものを象徴しています。

クリスマスの物語を思い起こすとき、そこには数えきれないほどの「アーメン」が折り重なっていることに気づかされます。まず、主イエスご自身が、父なる神の救いのご計画に「アーメン」と応え、へりくだってこの世に来られました。そのアーメンがなければ、クリスマスは存在しませんでした。またマリアも天使の告知に戸惑いと恐れを覚えながらも、「お言葉どおり、この身になりますように」と応え、ヨセフも、夢の中で示された神の導きを信じ、世間の目や自らの不安を超えてマリアを受け入れました。

では、本日登場する羊飼いたちはどうでしょうか。

羊飼いたちのアーメンの応答は、彼らが置かれていた現実を大きく越えて踏み出す決断でした。当時の羊飼いは、社会の中で決して評価の高い存在ではなく、人 目につかない場所で、夜通し働く日々を送っていました。責任をもって羊を守る彼らにとって、その場を離れることは、不安と危険を伴う選択だったはずです。それでも彼らは天使の知らせを聞いた後、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と互いに声をかけ合い、動き出します。

羊飼いたちは、すべてを理解してから行動したのではありません。恐れや迷いを抱えたまま、それでも神の言葉を信じて歩み始めたのです。彼らのアーメンは、立場や常識、自己評価の低さを越えて、神の救いの出来事の中心へと彼ら自身を導きました。

この物語は、私たちにも問いかけています。「自分には無理だ」「ふさわしくない」「今は忙しすぎる」、そうした思いに縛られて立ち止まってはいないでしょうか。羊飼いたちの一歩は、今いる場所からでも、私たちが神の招きに応えて歩み出せることを、力強く示しているのです。

そのとおり、「アーメン」は祈りの終点ではありません。単なる心情的な同意で終わる呪文でもありません。むしろアーメンは、「これから始めます」という信仰の出発点です。祈りの中で神に心を向けた私たちは、アーメンをもって再び日常へと遣わされていきます。その言葉は、信仰を行動へと翻訳する合図のようなものなのです。

神と出会った者は、必ず動き出します。アーメンとは、神と出会った者が歩み始めるための言葉なのです。アーメン。それは終わりの言葉ではなく、神とともに生きる物語の、新しい一章の始まりなのです。ハレルヤ!