2025年10月20日月曜日

2025.10.19 牧師室便り

「宗教改革記念日とハロウィン」

10月になると、キリスト教会とこの世界では、まったく異なる二つの行事を迎えます。

キリスト教会において10月31日は、1517年にマルティン・ルターによって始められた宗教改革を記念する日です。

この日は、信仰によって救われるという福音の真理を再発見し、命を懸けてその信仰を守り抜いた先人たちの勇気と犠牲を覚える時です。世界中のプロテスタント教会は、この日を感謝と賛美をもって迎え、恵みの道を示された神の御名をあがめます。

一方、この世では同じ時期に「ハロウィン」という祭りが盛大に祝われています。毎年のようにその文化は世界的に広がり、街は飾りで彩られ、人々は仮装を楽しみながらにぎわいを見せています。教会にも、「今年のハロウィンパーティーはありますか?」という質問が寄せられることがあります。しかし、ハロウィンは本来キリスト教の祭りではなく、古代ヨーロッパの収穫祭や死者の霊をなだめる異教的風習に由来するものです。それが現代では、娯楽や商業的行事として形を変え、多くの人々に受け入れられるようになりました。

けれども、この二つの行事の本質はまったく異なります。宗教改革記念日は、人間の恐れや権力の圧力に屈することなく、神の真理のために立ち上がった信仰者たちの「信仰の勝利の日」です。一方でハロウィンは、悪霊や死の恐怖に対して「より恐ろしい姿」を装うことで、悪を追い払おうとする「恐れの文化」に根ざしています。

しかし私たちは、神の民です。神の愛のうちに生かされ、その愛の力によって悪に打ち勝つ者とされています。世の人々が恐れによって悪を避けようとするのに対し、私たちは信仰によって悪に立ち向かう者です。なぜなら、神の完全な愛は恐れを締め出すからです(Ⅰヨハネ4章18節)。

皆さん、いかがでしょうか。真の勝利はどこから来るのでしょうか。そして、あなたはいま何を恐れているでしょうか。シャローム。




2025.10.19 本日の宣教

 『 おくびょうから力と愛の人へ 』

                     テモテへの手紙二 1章7~8節

私たちの心は、なぜこんなにも頻繁に恐れ、落ち込み、落胆してしまうのでしょうか。本日の御言葉を通して、はっきりと分かることがあります。それは、「恐れや落胆、失望は、神がくださった心ではない」ということです。

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(1:7)」

使徒パウロがこの手紙を書いたのは、ローマの獄中で、死を目前にした晩年のことでした。冷たい牢の中で、彼の心は霊的な息子であり、最も信頼していた同労者テモテに向けられていました。当時、エフェソ教会の若き指導者であったテモテはとても繊細で、どこか気弱であり、人々の反応や迫害によって心を揺らす傾向をもっていた人でもあったと考えられます。

パウロはそのテモテに向かって、「あなたはおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をいただいているのだ」と語ります。ここで「おくびょう」と訳されるギリシャ語には、「後ずさりする」「恐れて逃げる」という意味があります。つまり、神ではなく、自分や状況を中心に見つめてしまう心の状態を指しているのです。これはまさしく、アダムが罪を犯した後に「わたしは裸なので隠れました」と言ったあの時から、人は恐れによって神から離れようとする性質を持つようになったことを思い起こさせます。恐れとは、神から離れた人の心のしるしでもあるのです。

しかし、イエス・キリストが十字架で死を打ち破られたとき、恐れの根は断ち切られました。パウロはその福音を体験し、「生きるにも死ぬにも主のもの」と告白しました。だからこそ、牢にあっても希望を語り、若い弟子に向 かって「恐れるな」と励ますことができたのです。

では、「力の霊」とは何でしょうか。それは人間的な強さや勇ましさではありません。「力」とは、神の臨在によって内から湧き上がる命の力です。私たちの信仰の歩みは「自分の力で」ではなく、「神の力によって」進むものです。弱さの中にこそ、神の力が現れる、それが福音の逆説なのです。

しかし、力だけでは人は救われません。そこに「愛の霊」が伴うとき、初めて神の力は人を生かす力となります。パウロがテモテを「わたしの愛する子」と呼ぶ姿から、彼の深い愛が伝わってきます。愛は恐れを締め出す力をもっています(Ⅰヨハネ4:18)。主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたとき、それは力と愛が一つになった瞬間でした。

さらにパウロは、「思慮分別」(慎み)の霊を挙げます。これは単なる感情の抑制や冷静さというよりも、聖霊に導かれたバランスの取れた心を意味します。力と愛を持っていても、思慮がなければ人を傷つけてしまいます。「思慮分別の霊」は、聖霊に従順である心のしるしです。祈りの中で神の御声に耳を傾け、何を語るべきか、何に沈黙すべきかを教えられる、それが、思慮分別の霊に満たされた人の姿です。

宗教改革を覚えるこの月、恐れの時代のただ中で、信仰に生きる者が再び証人として、光として立ち上がる。それこそが、神の霊によって生かされる教会の姿です。ハレルヤ!


2025.10.19 小さな泉の恵み

 今秋も、北海道をはじめ各地で人の生活圏で熊の出没が多発し人身事故も多数発生しています。私が知る山菜採りのおじさんも熊に襲われ大怪我をしました。一説によると、今の熊は人を狙って近づいて来ると言います。熊が生息する山林で多くの人がバーベキューの食べ残しを山に棄てるので、それを食べた熊が、その味を求めて人を襲うというのです。本当の山男は山に食べ物を放置しません。以前は熊は人を恐れて人が近づいて来ると逃げる。襲われるのは熊も人も気づかず出会ってしまった時だけと聞いていました。熊が人を恐れないなら、熊鈴やラジオを鳴らして山に入るのは意味が無いどころか危険を身に招くことになります。私たちの常識の書き換えが必要かもしれません。山に食べ残しを放置する人に悪意はありません。しかし無知です。無知は罪です。全てを造られた神様を知らないことは最も大きな罪です。そして多くの人は身に迫る滅びをも知りません。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの信徒への手紙3:23~24)」皆に神を知る知恵が与えられますように。

                            S.Y.兄

2025年10月11日土曜日

2025.10.12 牧師室便り

 「弱さの中に現れる主の恵み」 

先週の後半、二人の姉妹を訪問しました。

まず木曜日には、M姉のご自宅で家庭礼拝をささげました。今年に入ってから体調を崩され、吐き気や眠れない日々が続き、なかなか主日礼拝に集うことが難しくなっておられます。

そんな中で姉妹は、「礼拝に行きたいけれど、辛くて行けません」「早く元気になって礼拝に出席したい」と願い、「家庭礼拝を行ってほしい」と求められたのでした。…家庭礼拝の途中、姉妹は何度も吐き気に苦しみながらも、真剣に祈りと賛美を献げられました。苦しみの中にあっても真心から礼拝をささげる姿勢に、私も深く心を動かされました。

家庭礼拝で分かち合った御言葉は、「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださった」(Ⅱテモテ1:7)でした。弱さと不安の中にあるM姉の信仰を主が励まし、聖霊の力と愛で癒してくださることを信じて祈りました。

翌日は、高岡の病院に入院しているY姉を訪ねました。体は以前よりも弱り、顔は先日転んだことで痣だらけで、姿勢を整えて座ることも難しい状態でしたが、牧師の訪問を心から喜び、祈祷会の皆さんからのハガキを嬉しそうに受け取ってくれました。
そして前回と同じように、「父の涙」を一節一節、間違えることなく歌い終えられました。その姿に、神様の臨在と深い喜びを感じました。

弱さは決して、神を礼拝することや、神に愛されることを妨げるものではありません。むしろ、弱さの中にこそ主は共におられ、その魂の礼拝を喜んで受け入れてくださるのです。
どうかM姉とY姉、そして神の家族お一人おひとりの日々が、主に喜ばれる礼拝と賛美に満たされますように。主の恵みと慰めが、すべての弱さの中にある神の家族の上に豊かに注がれますように。
シャローム。

2025.10.12 本日の宣教

  『  兄弟愛にいっそう励む教会  』

                 テサロニケの信徒への手紙一 4章9~12節

テサロニケの教会は、パウロの宣教活動の中でも、特に短い期間で生まれた教会でした。けれども彼らは、迫害の中にあっても信仰を捨てず、互いに助け合いながら主に仕えていました。パウロはそのことを聞いて心から喜び、「兄弟愛については改めて教える必要がない」と書き送ったのです。ここでの「兄弟愛」(ギリシア語:フィラデルフィア)は、「信仰によって一つにされた兄弟姉妹の愛」を意味します。

パウロは「あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられている」(9節)と言います。これは実に美しい表現です。愛とは、人間が努力して学ぶものではなく、神ご自身が教えてくださるものだという意味です。

ヨハネの手紙には、「愛は神から出るものである」(Ⅰヨハネ4:7)とあります。人は神に愛されたとき、初めて人を愛する力を与えられます。私たちが互いに赦し、仕え、助け合うことができるのは、神がまず私たちを赦し、受け入れてくださったからです。

テサロニケの信徒たちは、その神の愛に教えられた人々でした。彼らは単なる仲間としてではなく、「兄弟姉妹」として互いを支え合いました。血のつながりを超えた霊的な家族、それが教会の姿です。さらに彼らの兄弟愛は、「テサロニケ教会のみならず、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行している」と言われるほどでした。

それでもパウロはそこに満足せず、「いっそう励むように」と勧めています。この言葉には、愛がすでにあることを 喜びつつ、愛が完成されるまで成長し続けてほしいという願いが込められています。愛は、決して一度で完成するものではありません。愛は動詞です。生きて働き、形を変えながら続いていくものです。

ところが、テサロニケの教会には一つの課題がありました。それは、主の再臨を待ち望むあまり、日々の働きをおろそかにする人たちがいたということです。彼らは「どうせこの世は終わるのだから」と言って仕事をやめ、他人に頼るようになっていました。パウロはそれを戒め、「落ち着いた生活をすること」を勧めたのです。

テサロニケの教会へのパウロの「兄弟愛の勧め」は、主の再臨に関する教えと深く結びついています。つまり、終わりの日を待ち望む教会がどのように生きるべきか、その答えがここにあるのです。

主の再臨を信じる者とは、ただ空を見上げて時を数えるのではなく、地に足をつけて愛に生きる者です。終わりの日への最も確かな備えは、兄弟愛に励むことです。再臨の信仰は、私たちを現実世界から逃げさせるのではなく、キリスト者としての責任へと導きます。「どうせこの世は滅びるのだから」ではなく、「だからこそ、今を誠実に生きよう」と私たちを動かすのです。

愛する神の家族の皆さん、愛に「もう十分」ということはありません。神が私たちを今も愛しておられるように、私たちもまた、いっそう励み続けるのです。

兄弟愛に生きる教会、それこそが、終わりの時代を生きる教会の姿です。ハレルヤ!


2025.10.12 小さな泉の恵み

 「知らされなかった者が見る」 

パウロの言葉を読むとき、わたしは「道の途中」に立っているような気持ちになります。 彼はすでに多くを成し遂げた人でしたが、それでも「まだ知られていないところへ行きたい」と願っていました。誰も耕していない地に、神の愛の種をまく。それが、彼の誇りであり、喜びでした。 けれども、その誇りは「自分の力」ではなく、「キリストにあっての誇り」だと彼は言います。 

私たちはつい、人の評価や成果で自分を測ってしまう。 けれどパウロは、「キリストが私を通してなさったこと以外は誇らない」と言うのです。つまり、神の働きが私を通って流れたとき、それがすべてだ、と。 わたしも、能登や富山での支援や小さな奉仕をしていると、 「どれだけの人が救われただろう」「意味があったのだろうか」と思う瞬間があります。 「彼のことを告げられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟る。」 (ローマ人への手紙15章21節) この言葉は、私たちの力を超えて働く神の約束のように響きます。 見えないところで、人知れず、心が動かされ、希望の灯がともる。 そのすべてが、神の愛の“しるし”なのだと思います。 

わたしはこれからも、小さな場であっても、キリストにあって誇りを持ち、静かに仕えます。語らずとも、行いのうちに福音が香るように。 そしていつの日か、誰かの目に「愛のしるし」が映るとき、確かにそれが神ご自身の働きだったと気づけるように。

                                A.M.姉

2025.10.5 牧師室便り

 「 すべては主の恵みです 」

昨年から今年にかけて、私たち小泉町教会に与えられた数多くの祝福の中で、最も大きなものは「小さな泉のカフェ」でありましょう。能登大地震という悲しい出来事をきっかけに始まったY地区の皆さんとの交わりですが、神はその交わりを大いに祝福してくださり、村の方々と驚くほど豊かな絆を築くことができました。

今年度もすでに半分が過ぎ、残された時間もわずかです。以前から皆さんとも話し合ってきたように、「小さな泉のカフェ」の働きは2025年度までを一区切りとし、その後については未定であるとお伝えしてきました。その時まで最善を尽くしてY地区の方々に仕えていきたいと願っています。

ところが前回のカフェの折、M主事から「今年度で終わるのでしょうか」と寂しそうに尋ねられました。また、集っておられる方々が「いつも楽しみに待っていました」「最初から一度も休まず来ています」と笑顔で語られる姿を見ながら、心から感謝があふれ、新たな祈りへと導かれました。そのためM主事には、「もしY地区の皆さんが望まれるなら、回数は減るかもしれませんが、定期的に伺いたいと思います」とお答えしました。今後は皆さんと相談しつつ決めていきたいと思います。回を重ねるたびに、Y公民館での交わりの豊かさと、皆さんが心待ちにしてくださっている姿を実感しています。もしこの働きを神がさらに望まれるのであれば、私たちは御言葉に従わなければなりません。

いつもお伝えしていることですが、人との出会いに偶然はありません。どんな出会いにも神の導きと御業があります。これまでそのことを幾度となく体験してきました。私たちにできることを最善を尽くして行いながら、これからの働きとY地区の皆さんとの交わりを期待していきたいと思います。

Y地区の皆さんが「お腹も心もいっぱい満たされた」と喜んで帰って行かれる姿、そしてカフェの中で歌ったゴスペル「めぐみ」の歌詞を受けてU館長が冗談交じりに語られた「そうですね。すべてが主の恵みですね」という言葉…。その瞬間、ああ、彼らの心にもすべてが主の恵みとして届いているのだなと思い、嬉しくなった私でした。シャローム。