2024年11月5日火曜日

2024.11.3 牧師室便り

 ~ 小さな泉のカフェの感動 ~

先週木曜日、二回目の「小さな泉のカフェ」が神の恵みのうちに終わりました。小泉町教会から9名、I教会から2名、計11名のボランティアが参加し、特に体調が万全でない中でも力を尽くしてくださった方々に感謝します。

朝8時半に教会を出発しましたが、道中で通行止めや道に迷う場面もありましたが、無事に柳田公民館に到着し、地元のお弁当を昼食にいただきながら役割を確認し、下準備を開始しました。ちょうど同じ時にテレビでは大谷選手のドジャースがワールドシリーズで優勝したニュース流れ、公民館の方々や住民の皆さんと共に喜びました。

カフェの開始は3時でしたが、多くの方が早めに来られたため、祈りと共に2時50分からオープンしました。住民の皆さんが私たちの訪問を心待ちにしてくださっていた喜びを身をもって感じながら、活動を始めました。始まって20分ほどで、神の家族の皆さんが作ってくださったパウンドケーキ、シフォンケーキ、スイートポテト、プリンはすぐに完売され、その後はメインのチヂミとチャプチェ、飲み物を提供しました。住民の皆さんから「おいしい」「嬉しい」「待ってました」と温かい言葉をいただきながら、ボランティアたちも慰めと励ましを感じました。始まってから約30分後、島田兄による楽しい挨拶とオープニングの歌があり、日本の歌謡曲や誕生日のお祝い、その後、皆さんへのプレゼントとして賛美歌をも披露し、喜びの拍手に包まれました。1時間が経つ頃にはほとんどの住民がおいでになり、地域新聞の記者も取材に来られました。そして最後のお客さんとして若い夫婦と3人の子どもが訪れ、心温まるひと時を過ごしました。

5時過ぎに職員の皆さんと集合写真を撮り、次回11月28日の再会を約束し帰路につきました。帰りの途中、サービスエリアで美味しく夕食を食べ教会に到着し解散しました。疲れた中でも献身的に奉仕してくださった参加者の皆さん、また執り成しの祈りと支えてくださった神の家族に感謝します。キリストの癒しと慰めが豊かに注がれますように・・。災害に見舞われた方々や地域の皆さんに、私たち小泉町教会の小さな群れが小さな慰めを届けられたことを感謝し、すべてを備えられ導かれ祝福された神を賛美します。シャローム!



2024.11.3 本日の宣教

  『神の友と呼ばれたい』

                                                        ヤコブの手紙 2章 18~26節

信仰と行いの一致は、神の子どもたちへの父なる神の御心です。ヤコブは2章で「行いのない信仰は宗教的偽善であり、信仰がないからこそ愛の行いができないのだ」と強調しています。つまり、ある人の言葉と行いが一致しなければ、人々はその人の言葉ではなく、行いによってその人物を判断するようになります。

ヤコブは、信仰と行いが一致していた例として、アブラハムとラハブの二人を挙げています。特に、アブラハムが神に義とされるために息子イサクを献げた出来事が取り上げられます。100歳の時に奇跡的に与えられた息子イサクをいけにえとして献げるようにと神に命じられたアブラハムは、創造主であり復活の神への絶対的な信頼をもって、この試練に立ち向かいました。

その時のアブラハムの信仰についてヤコブは次のように記しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(23節)。…聖書の中で「神の友」と呼ばれた人はアブラハムだけです。それほど彼は神との親密な関係を持っていました。「神の友」とは、単に神を信じる者を指すのではなく、神を深く信頼し、神の御心を理解し、その御心に従順に具体的な行いをもって応える者を指します。アブラハムが示した信仰は、まさに神に対する従順と献身によって完成されたものでした。そうです。信仰とは、頭の中の思いや感情にとどまるものではなく、具体的な行動によって示されるべきものです。

最後にヤコブは、「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(26節)」と強調します。信仰とその信仰に基づく行いは、決して切り離せるものではありません。

「神の友と呼ばれたい」と願う私たちにとって、信仰は心の中にあるだけでなく、その信仰がどのような行いに結びついているかが重要です。アブラハムやラハブのように、神への信仰を具体的な行動で示すとき、神は私たちを喜び、「友」と呼んでくださるでしょう。

愛する神の家族の皆さん、私たちも日々の歩みの中で、神の愛と信仰を行動に表しましょう。苦しみの中にある隣人を愛し、困難に直面しても信仰の決断と行いをもって神に従うとき、私たちは神の友としての親しい関係を築くことができます。

願わくは、お一人おひとりが神の友と呼ばれる人となり、神と隣人に喜ばれる信仰者としての歩みを続ける日々でありますように…。

ハレルヤ! 

                




2024.11.3 小さな泉の恵み

 ~食料高騰(食料危機)に備える~

米国、ハリケーン「ミルトン」の破壊的な風、大雨、高潮に備え、フロリダ州の肥料工場は10月9日に閉鎖されました。その工場では米国のリン酸肥料輸出全体の約40%、肥料輸出全体の27%がその地域から輸出されています。今後のリン酸塩市場はさらに逼迫するでしょう。リン酸は植物の生育にとって欠かせないものであり、根の生育を良くしたり、開花・結実を良くする必須肥料です。それが不足してくるということは、今後肥料が高騰し、野菜やその他の食料が高騰してくることを意味しています。今年は暑さのせいで野菜が育たず、高騰していますが、来年もさらに高騰することが予想されます。「結局芋を食べるのかあ。」と思いきや、芋の生産も上手くいかなくなるかもしれません。

そこでお勧めなのが家庭菜園です。人口を養うのにベースとなる慣行農法ではどうしても大量生産・大量供給するために化学肥料が必要となります。しかし、家庭菜園ならば、化学肥料を使わずとも野菜を作ることができます。米ぬかにはリン酸が多く含まれていますし、他の栄養素も含まれています。是非とも米ぬかと微生物の力を借りて、病気に負けない元気野菜を作って健康な体作りに取り組んでいきませんか。始めは作りやすい物からでよいです。それから少しずつ自信を付けて、次第に自給率を高めていくことが食料高騰時代を生き抜く知恵ではないでしょうか。

                       S.H.姉

2024.10.27 牧師室便り

  ~ キリストの体に加わる恵み ~

本日の礼拝では、Sご夫妻の入会式が行われます。昨年12月から教会に通い始め、まもなく1年を迎えようとされています。この1年間、S夫妻を通して多くの恵みをいただけたことを、心から感謝します。

S夫妻はご存知のとおり、それぞれ大学で学生たちを教えておられました。それからリタイア後、S兄は有機農業の普及に力を注いでこられています。その中で何より嬉しかったことは、ご夫妻が毎週の礼拝に欠かさず出席されていることと、神の家族の皆さんとも良い交わりを深めてこられたことでした。そしていよいよお二人は、富山小泉町キリスト教会のキリストの体の一部分として、神の家族の群れに加わりたいとの思いを与えられ、今日の入会式を迎えることになったのです。

「教会の約束」の中の「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じる」という言葉のとおり、私たちの教会は神の御手によって成り立っていることを告白します。これまでも確認してきたように、出会いは神の御業です。まさしくS夫妻が私たちの教会に導かれたこと、ご夫妻に入会の思いが与えられたこと、そして神の家族がご夫妻を喜んで迎え入れるようになったことは、すべて聖霊の働きによる恵みです。

今までもそうでしたが、これからの小泉町教会は、キリストの健康な体を築き上げるため、体の各部分となる神の家族一人ひとりが、それぞれに与えられた固有の賜物をできる限り生かしながら歩んでいくことを願っています。それぞれの賜物が教会の働きの中で十分に用いられることで、神の栄光が現れ、キリストの健康な体が築き上げられることを祈ります。

どうか小泉町教会の群れを通して、S夫妻が幸いな信仰生活を与えられ、またご夫妻を通して教会全体が祝福を受けることができますように…。互いに最善を尽くして支え合っていきましょう。シャローム!



2024.10.27 本日の宣教

 『 あきらめず叩こう 』

                                                   マタイによる福音書7章7~8節

主イエスは、神に祈ることを教えるために「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」という三つのことを勧めておられます。特にこれらの動詞は命令形の現在進行時制であるため、本来の意味は「求め続けなさい」「探し続けなさい」「叩き続けなさい」となります。つまり、主イエスの勧めに従って忍耐をもって祈り続けるなら、「与えられる」「見つかる」「開かれる」という神の応答が保証されているのです。これは、神の子どもたちの祈りに対する父なる神の確かな約束です。

私たちは時に、「神は本当に私たちの祈りを聞いておられるのか?」と疑ってしまうことがあります。しかし、神は常に私たちの祈りを聞き、最善の答えを用意してくださいます。そして、神の時に、私たちの想像を超える祝福として応えられることになります。そこで大切なことが「あきらめず」に、求め、探し、たたくことなのです。

特に、本日の御言葉が示そうとしているのは、「祈りを聞いてくださる神への信頼」です。主イエスは、父なる神への信頼をもって祈り続ける姿勢を、神の子どもたちに求めておられます。したがって、祈りが叶うかどうか以上に、すべてをご存じであり、すべてを聞いておられ、良しとされる時に応答してくださる神に対して信頼をもって粘り強く祈り続けること自体が、キリスト者の信仰の成長につながるのです。

先週の2024年チャペルコンサートでは、本当に大きな恵みと喜びに包まれました。特に感謝したのは、しばらく神の家族の交わりから離れていた方々が再び礼拝に集まり、喜びの涙をもって互いを確認し合えたことでしょう。

この出来事を通して、私たちは改めて、教会から離れている他の方々のことを思い起こし、彼らが戻ってくることへの期待が一層強まったことでしょう。
主イエスはいろいろなたとえ話を語られる中で、常に強調されていた姿勢がありました。それこそ、一人を救うために「決してあきらめられない」姿でした。
良き羊飼いのたとえ話では、一匹の羊が群れから離れてさまよっていたことを、そのまま放っておくことはしません。羊飼いは山の隅々まで探し回り、危険や試練を乗り越えて見つけ出します。そして、とうとうその失われた羊を見つけたときには、肩に背負って帰り、喜びのあまり周りの人々を招いて祝宴を開きます。また、ルカによる福音書14章23節では、「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と命じておられます。この言葉には、神が失われた人々に向ける熱情の愛が込められており、そのために私たちを遣わそうとしておられるのです。
愛する神の家族の皆さん、もしかすると、私たちは神に対して祈る時も、また大切な人への福音伝道においても「あきらめる」ことに慣れてしまってはいないでしょうか。失われた者を探し出して喜ぶことこそ、私たちの父なる神の御心です。そして、それこそ私たちが備えるべき姿勢でもあります。そうです、あきらめずに叩き続けることが大切なのです。
ハレルヤ!


2024.10.27 小さな泉の恵み

 日曜の夜、妻に、「えーん😭 教会でまたある方に『あなたは面倒くさい!』って言われたよーっ。何とかしてよ、ドラえもん。」「『しょうがないなぁ、のび太くん。』って誰が ドラえもんや。言うてもしずかちゃんやろ!普通は、面倒くさい本人に『面倒くさい』とは言わないもんだけど、その人は正しい。あなたは確かに面倒くさい。(妻)」 「そうなの?」 「まぁ、それだから『あなた』って言うか、面倒くさく無いあなたは、あなたじゃな い。あなたを扱えるのは私しかいないか ら、教会では大人しくしていれば。(妻)」 「でもそれだと自分じゃ無くなるんでしょ?」「あっ、いいこと思いついた(妻)」「何か良い道具が有るの?」「だからドラえもんじゃないって😠。名前を『免独斎(めんどくさい)』に改名するの。今度『面倒くさい』って言われても、『はーい』って返事しとかれ。(妻) 」「へぇー。なんか剣豪みたいな名前だね。」

旧約聖書のホセア書の1章では、預言者ホセアの子供にイズレエル(イスラエルの滅亡の意)、ロ・ルハマ(あわれまれない者)、ロ・アンミ(私の民では無い)という名前が付けられます。  背きの民を嘆き、裁きと断絶が示された極めて切ない話です。信仰の深まらない私に下さる名前はやはり「メン・ドクサイ」だろうか?

 「あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア書12:6)」

                         S.Y.兄

2024.10.20 牧師室便り

 ~ 心の貧しい者は幸い ~

 聖書には、貧しいやもめと金持ちの献金の場面が描かれています。やもめは200円ほどのわずかな金額を献げ、隣の金持ちは多くの金貨を献げました。これを見た主イエスは弟子たちに「どちらが多く献げたのか」と問いかけます。弟子たちは当然、金持ちを選びましたが、主イエスは「金持ちは有り余る中から献げたが、やもめは乏しい中からすべてを献げた」と教えられます。神は額の大小よりも、感謝と愛の心からの献げものを喜ばれるのです。人はうわべを見ますが、神は人の心を見ておられることを覚えましょう。

小泉町教会は小さく弱い群れです。それでも、「もらうより与える方が幸いである」という御言葉を与えられ、苦しむ人々に助けの手を差し伸べるように命じられました。その御心に従い、約9年前から「路上生活者の自立を助けなさい」というビジョンが与えられ、「小さな泉の村」を立ち上げ、毎月一度、弁当や食品などを提供する活動を始め、今に至っています。また、今年の元日に発生した能登半島地震の際も、神から「被災地の人々を助け、慰めなさい」との使命が与えられ、能登町の小さな村との出会いが与えられ、支援活動を始めました。本日も被災地支援のためのチャリティーコンサートを開催する運びとなりました。

最近、不思議な出来事がありました。それは、教会の玄関前の聖句が書かれた壁の上に、毎日少しずつ硬貨が置かれるようになったのです。最初は置き忘れかと思いましたが、何日も続いたため、掲示板の支援活動の案内に心を動かされた方が、自分の持っている小さなものを献げられたのかもしれません。

神が求められる献げものは、心の貧しさを持ちつつ、人に見せるための大げさではなく、感謝と喜びをもって、周りの最も小さな人に神の愛の手を差し伸べることです。持っている小さなものを喜んで献げる人を、神は喜ばれるのです。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)」

シャローム!