2025年7月31日木曜日

2025.7.27 牧師室便り

 「 昼の太陽から、夜の月から」

「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主があなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。」(詩編121:6~7)

大変な猛暑が続く日々ですが、皆さんお元気でしょうか。先週、小泉町教会では、2年ぶりにファミリーキャンプを立山青少年自然の家で開催することができました。参加者は当初の予定より少なく17名となりましたが、いつものように充実した内容となり、ゆったりと過ごせるプログラム構成の中で、本当に恵まれた時を持つことができました。神の家族の皆さまのお祈りに、心より感謝申し上げます。

今回のキャンプを通して、参加された方々から「今後のファミリーキャンプの開催場所を変更する必要があるのではないか」との声も寄せられました。ぜひ来年に向けて、皆さんと共に話し合いながら、神の家族がより参加しやすく、喜びと恵みに満たされるキャンプを築いていきたいと願っています。

また、先週24日(木)には、第10回目となる「小さな泉のカフェ」が柳田公民館で開催されました。とりわけ今回は、7月でちょうど一年を迎えた節目でもあり、柳田公民館の梅館長や南主事をはじめ、多くの町の方々から感謝の言葉をいただき、感動と恵みが一層深まるひとときとなりました。これからも主の最善を期待しましょう。
神の家族の皆さん、これから本格的な夏が始まります。旅行に出かけられる方、またさまざまな夏の計画を持っておられる方々にとって、忙しい日々が続くかと思いますが、どうか体調管理に十分お気をつけください。
聖書の御言葉にあるように、「昼の太陽からも、夜の月からも」主が守ってくださることを信じつつ、この夏が生ける神との豊かな交わりの時となりますように。神の家族への主の御手の守りをお祈りいたします。シャローム。

2025.7.27 本日の宣教

 『 迷い出た羊を呼び戻そう 』

                  ヤコブの手紙 5章19~20節

興味深いことに、ヤコブは当時の一般的な手紙の結びのあいさつを記していません。彼は「わたしの兄弟たち」と呼びかけながら、彼らに主イエスの御心を抱くようにとチャレンジします。

ヤコブは、「あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいる」と語ります。初代教会には、ユダヤ教からキリスト教に改宗したものの、患難や迫害に耐えられず再びユダヤ教に戻る人、あるいは異端思想に惑わされ、真理を離れて誤った道へと進んでしまう人が多くいたようです。つまり、これは「教会の外の人々」ではなく、「教会の中の神の家族の兄弟姉妹」のことです。

長く信仰生活をしていても、またかつては熱心に仕えていた人であっても、時には「真理から迷い出てしまう」ことがあります。人生には様々な試練があります。病、経済的困難、人間関係のつまずき、そして内面の葛藤…。その中で、人は知らず知らずの内に心を閉ざし、教会からも、神からも、離れてしまうことがあるのです。

ヤコブは次に、「だれかがその人を真理へ連れ戻すならば」と語ります。ここで注目すべきは「誰か」という言葉です。これは特別な人、牧師や執事だけではありません。すべての神の家族、兄弟姉妹への呼びかけです。

主イエスも、迷い出た一匹の羊を探しに行く羊飼いのたとえ話をされました(ルカ15章)。99匹を残してでも、1匹を探しに行く。なぜなら、その1匹も神の目には尊く、愛されている存在だからです。 ヤコブは「その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる」と宣言します。これはなんという力強い言葉でしょうか。ここで「死」とは単に肉体の死ではなく、神から切り離された永遠の死、霊的な滅びを指しています。そして「多くの罪を覆う」という表現には、旧約聖書の贖いの思想が含まれています。すなわち、神の憐れみが罪を覆い、赦しが与えられるということです。つまり、人を一人連れ戻すことは、単なる「教会の出席者を増やす」ことではありません。それは、永遠の命へと続く道を再び歩ませる、神の大きな働きとなるのです。その一歩を、神はあなたを通してなさろうとしておられるのです。

愛する神の家族の皆さん、私たちは皆、神の羊であると同時に、互いの羊飼いでもあることを覚えましょう。完全な羊飼いはただ一人、主イエス・キリストだけです。しかし、主はご自身の群れの世話を、私たちに任せておられるのです。

迷った羊を探しに出かけて行くのは、大変なことかもしれません。でも、それをするのは、「義務や責任」ではなく、「愛と憐れみ」から出るものです。「迷い出た羊を呼び戻す」。それは、主イエスの心であり、私たちの使命でもあることを心がけましょう。今日、心に浮かぶあの人のことを覚えながら、まず祈り、次に手を差し伸べる一歩を踏み出しましょう。神はその一歩を祝福し、きっとその先に、喜びの再会と回復の時を備えてくださることでしょう。

ハレルヤ!


2025.7.27 小さな泉の恵み

 7月20日、賛美礼拝の後、立山青少年自然の家へ向かい、ファミリーキャンプに出かけました。

山道をドライブしながら、「こんなに遠かったかな」と思いました。以前よりも遠く感じたのは、やはり私が83歳という年齢になったからでしょうか。

深い緑の木々に囲まれ、セミの鳴き声が響く自然の道を歩くのは、とても気持ちのよい時間でした。開会礼拝の後は、賛美やビンゴゲームなどで楽しいひとときを過ごしました。

夕食後のキャンプファイヤーでは、美しい夜空の下、炎が夜空へと燃え上がる火を囲みながら、マシュマロを焼いて食べました。その後、兄弟姉妹と証しを分かち合い、素晴らしい時を過ごしました。

入浴後の懇談会では、久しぶりにビールを飲みながら、夜中の12時頃まで語り合いました。

21日(月)は、エゼキエル書3章1〜15節のみ言葉を通して、「神様はどのようなお方か」「どのみ言葉が心に留まったか」について話し合いました。私もまた、神のみ言葉を食べて心満たされ、強くされて、周りの人々に伝えることが出来るようになりたいと願いました。

                               N.Z.姉

2025年7月26日土曜日

2025.7.20 牧師室便り

 「 新しいビザ申請を前にして 」

日本に来て、もう30年が経ちました。私の人生の半分以上を日本で過ごしていることになります。

最初に来た時は留学生ビザで、毎年更新しながら延長してきました。そして牧師としての仕事を始めてからは、3年ごとの就労ビザを取得してきました。その間に永住権を取ろうと思ったこともありましたが、今の3年ごとのビザでも特に不便を感じることがなかったため、そのまま更新を続けてきました。

しかし最近になって、3年ごとのビザ更新というよりも、神様に約束した「日本で骨を埋める」という思いを成就するために、永住権を取得しようと、新たなチャレンジを決意しました。

ところが、永住権を申請するための書類を調べてみたところ、以前に比べて、求められる資料の量が倍以上に増えていて、今の入国管理の厳しさに驚かされました。

それでも一つ一つ必要な書類を整え、準備を進めているところです。最近では、銀行口座一つ開設するにも、いろいろな制限があることに気づきました。

何もかもが複雑になり、厳しくなってきているように思います。科学文明が発達すれば、もっと便利で簡単になるはずなのに、実際はかえって複雑になっているようで、理解に苦しみます。

もし私たちが天の御国に入るときにも、同じような手続きが必要だとしたら、いったい誰が天国に入れるでしょうか。その書類を準備することの大変さのゆえに、多くの人が途中であきらめてしまうかもしれません。

しかし、どうか安心してください。2000年前から今まで、私たちの救いに必要な資格、また天国に入るための「書類」は、一度も変わっていません。イエス・キリストの十字架の贖いと復活の命を心から信じ、イエス・キリストを「わが主」「わが救い主」としてお迎えするならば、誰であっても、どんな人であっても救われ、

天国に入ることが許されているのです。シャローム。



2025.7.20 本日の宣教

 『 変えられた私 』

              テモテへの手紙一 1章13~15節

「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」(テモテ一1:13)

私たちキリスト者の人生は、主イエスに出会う前の自分と、主イエスに出会ってから変えられた自分に分けられることでしょう。ですから、人の人生にもB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini=主の年)があるのです。このことを思うと、今も多くの人がなおB.C.の歴史を歩んでいることに気づかされます。一日も早く、イエス・キリストに出会い、「主の年」であるA.D.の歴史を歩んでほしいと、心から願っています。

聖書の登場人物の中にも、このB.C.とA.D.がはっきりと区分されており、そのことによって確かな証しをしている人物がいます。その人こそ、使徒パウロです。彼は、信仰によって生んだ子テモテに向けて、変えられた自分の人生を、確かな証しとして語っています。

人は、自分の過去を語るとき、つい美しく整えたくなるものです。失敗はなるべく伏せて、成功のエピソードを中心に語ろうとする傾向があります。しかし、パウロはまったく逆でした。むしろ、自分がどれほど罪深く、赦されるに値しない罪人であったかを率直に語ることで、神の憐れみを証ししようとしたのです。

パウロのように、私たち一人ひとりにも「変えられる前の自分」があります。それは、誰にも言いたくないような罪や失敗、傷や痛みを含んでいるのかもしれません。けれども、 神の恵みに出会うとき、それらすべてが「過去の出来事」ではなく、「神の憐れみを証しするための物語」へと変えられていくのです。

 その中でも、「わたしは、その罪人の中で最たる者(頭)です」(1:15)という言葉には、パウロの恵みに対する感動とへりくだりが表れています。

愛する皆さん、主イエスが来られた目的は、「罪人を愛し、救うため」なのです。そして、その福音の対象の中に、パウロ自身が含まれていることは、言葉では言い表せないほどの恵みでした。神を冒涜し、迫害し、暴力を振るっていた自分、神の愛を受けるには最もふさわしくないと思われる自分こそが、その福音に包まれている。そのことにパウロは驚き、感動をもって応えているのです。

私たちもまた、この恵みの中に生かされています。神の目に正しくなろうとする前に、まず「自分がどれほど罪深い者であったか」を正直に受け止める必要があります。そしてそのうえで、「それでも私は赦され、変えられつつある」という現在の恵みに目を向けることが求められているのです。

「変えられた私」、これは自慢ではなく、主イエスの十字架の憐れみへの告白であり、主イエスが私を変えてくださり、証し人として立ててくださったという確信の証しなのです。そして、変えられたというのは完成形ではなく、今もなお変えられ続けているという、現在形の恵みを生きる信仰告白なのです。ハレルヤ!


2025.7.20 小さな泉の恵み

 ~放課後等デーサービスで~

僕はYMCAの学童保育で支援員として働いてきたのですが、今年度から火曜、水曜、木曜の週3回で放課後等デーサービスで働いています。

放課後等デーサービスは学童保育と同じで学校を下校した子ども達が過ごす場所です。

学童保育とは違い放課後等デーサービスには障害のある子ども達が来る場所です。

障害のある子ども達はできないことも多いけれど他の人とは違う感性を持っていてその子達から気づかせられることも多くあります。

またこの子達は人の悪口を言ったりすることはない優しい子達で、この子達といるとこちらも優しい気持ちになります。

しかしこの子達が生きていくには今の社会は生きづらく、困ることも多くあります。

この子達の上に神様の恵みがあり輝ける人生を過ごせるように祈ります。

                             S.H.兄

2025.7.13 牧師室便り

 「 母からの思わぬ贈り物 」

先週のある日、義理の母が日本にいたときに使っていたカバンを片付けるために中を確認したところ、母が長年にわたって大切に書き続けていた帳面が出てきました。一つ一つ、母が大切に使っていたお金の項目がぎっしりと記されており、その帳面をめくっている途中、千円札の束が出てきたのです。

妻と私は驚きながらその中身を確認したところ、それは母が日本に来る前に銀行から大切に引き出してきたお金でした。

おそらく母は、主日礼拝の献金として毎回千円ずつ献げるために準備していたのでしょう。しかし、思いがけず怪我をされ、やむを得ず帰国することになってしまいました。そのため、この帳面の中の千円札の束は使われることなく、そのまま挟まれていたのです。

義理の母は今年1月、95歳で天に召されました。今は天にあって、天国での祝福を受けながら、地上の家族のために祈ってくれていると信じています。私たち夫婦は、この母が大切に備えていた献金を、そのまま感謝献金として献げることにしました。

最近、教会の会計状況は厳しく、私たちも神の助けと祝福を祈り求めています。これまで小泉町教会を支えてこられた主が、時にかなって奇跡的に必要を満たしてくださったことを信じ、今回の義母にまつわる出来事も、その一つとして受け取りました。もちろん、大きな額ではありませんでしたが、神は義理の母の献金に込められた大切な思いを、私たち夫婦へのプレゼントとして与えてくださったのだと思います。

愛する主は、小泉町教会を深く愛しておられます。そして、これまでも時にかなって必要を満たしてくださってきました。これからも神は、小泉町教会の歩みと、福音伝道の働きを必ず祝福してくださると信じ、私たちも主に献げる歩みを続けていきたいと思います。シャローム。



2025.7.13 本日の宣教

 『  祈りの人 エリヤのように  』

               ヤコブの手紙5章16~18節

「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコブ5:16)

ヤコブの手紙のこの箇所では、「正しい人の祈り」がもつ力が強調され、旧約聖書の預言者エリヤがその例として挙げられています。エリヤは、イスラエルの歴史の中で最も偉大な祈りの人として知られており、主イエスの変貌の山では、モーセと共に現れた預言者の代表でもありました(マタイ17:1~8)。

だからこそ、私たちはエリヤと聞くと、どこか遠い存在に思えてしまうかもしれません。彼は火を天から呼び、雨を止め、奇跡を起こした人物であり、私たちには雲の上の人のように感じられます。

しかしヤコブは、その偉大な預言者エリヤについて、「私たちと同じような人間」であったと語ります。つまり、特別な力を持った超人ではなく、弱さや葛藤を抱えながら神に仕えた人だったのです。実際、聖書を読むと、エリヤも落ち込み、恐れ、逃げ出したことがあります。絶望のあまり、「死にたい」とすら願ったこともあるのです。そのような彼の姿に、私たちは自分自身の弱さを重ねることができます(列王記上19章参照)。

それでも、エリヤの祈りは聞かれ、天は雨を止め、またその祈りによって再び雨を降らせたことを聖書は証ししています。なぜでしょうか。それは、彼の祈りが「正しい人の祈り」であったからです。先週も分かち合いましたように、 「正しい人」とは、完全な人間のことではなく、信仰によって救われ、神との正しい関係に生きている人のことを指します。また、常に神との交わりを保ち、すべてを神にゆだね、信仰の目で神の働きを待ち望む人のことです。その正しい人の祈りこそが、力をもって働くのです。その通り、エリヤの祈りには、明確な神の御心への一致がありました。

私たちも、日々の生活の中で、苦しみの時、病の時、罪の中にある時、予想もしなかった試練に遭う時、…あらゆる時に祈りをささげる者でありたいと思います。そしてその祈りが、神の御心に一致してエリヤが起こした大いなる御業をこの地に実現することになるでしょう。

もちろん、私たちが祈るとき、すぐに奇跡のような変化が起こるとは限りません。けれども、神はその祈りを確かに聞いておられます。そして、神ご自身がふさわしい時に、ふさわしい形と方法で応えてくださいます。その祈りの結果を見ることができるのは、今日かもしれませんし、ずっと先かもしれません。しかし、祈り続けること、信頼して待ち望むことこそが、信仰者の歩みなのです。

だからこそ、今日も私たちはエリヤのように祈りましょう。希望が見えない時も、心が乾いている時も、ただ神を信じて祈りましょう。ぜひ、エリヤのように、祈りによって神に働いていただく人生を、共に歩んでいこうではありませんか。

ハレルヤ!


2025.7.13 小さな泉の恵み

 米の価格高騰から関心が高まった米作り。今年は農園から一町四反ほど(14000㎡)の田んぼの水管理を任せて貰っています。とても嬉しく毎日、朝、昼、夕方田んぼに行き必要な水位に調節します。同時に稲の草丈や葉の色、雑草の有無などを確認します。今はクサネムの除去に努めています。このクサネムとはとても困ったヤツで稲刈りのころに小さくて黒い種ができて、この種が米の中に混入すると等級が下がり大損害です。よく今頃、草刈り機で刈るのですが、厄介なことに、クサネムは切り口から再生してまた生えてくるので、草刈り前より群生してしまいます。そこでクサネムを見たら直ちに根っこから抜いています。今なら小さいので、片手で50本以上片付けることができます。昨年までクサネムの除去に大変な力を費やしてきたので、少し楽になりそうです。今年は茄子や玉ねぎが不作なのですが、稲作は豊作であって欲しいと願っています。

 「いかに幸いなことか主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか(詩編128編1~2節)

                             S.Y.兄

2025.7.6 牧師室便り

 「 それでも私は祈ります 」

想像を絶するような暑さが、今、世界を覆っています。毎年のように「例年にない」「歴代最高の暑さ」といった言葉を耳にしますが、今年もまた同じことが繰り返されています。これから本格的な夏を迎えるにあたり、不安と恐れを覚えずにはいられません。

世界各地では、日本をはるかに上回る高温の中で、多くの人が命を落としています。また、自然災害も各地で相次いでおり、日本国内においても、鹿児島のトカラ列島では一週間に1000回を超える地震が観測されるという異常な事態が報じられています。私たちの力をはるかに超えた自然の変化の中で、私たちは何ができるでしょうか。

暑さや疲れによって祈る気力も失われがちになり、知らず知らずのうちに不安や恐れが心を覆っていくように感じます。しかし、だからこそ今、信仰の目を開き、現実から目を背けるのではなく、この世界をしっかりと見つめ直しましょう。

そして、今置かれている状況を見極めつつ、私たちにできることを見つけていきましょう。まず、愛する人々に真の神の御言葉を語り、共に神の国を待ち望む者として歩んでいきましょう。それに加えて、地球温暖化を少しでも抑えるための良き働きに力を合わせていきましょう。
愛する神の家族の皆さん、今、あなたの心を支配している不安や恐れは何でしょうか? そのままにせず、主に差し出しましょう。神の助けを求め、人知を超えた平安をいただきましょう。そして、エリヤのように、神の大いなる力を信じ、求めていきましょう。私たちは弱い存在ですが、天地を造られた神は、私たちの思いをはるかに超えて働いてくださるお方です。
祈りましょう。信頼しましょう。そして、神の国を待ち望みましょう。シャローム。
「マラナタ、主よ、来てください!」

2025.7.6 本日の宣教

 『 信仰に基づく祈りの力  』

                ヤコブの手紙5章14~18節

ヤコブは手紙の締めくくりにおいて、「祈り」について強調します。特に、教会共同体において病気や苦難の中にある人々のために祈ることを勧めています。

私たちの人生には、思いがけない病や苦しみが訪れます。それは、私たちの信仰の有無に関わらずやって来るものです。神を信じる者であっても、私たちは弱さと限界を持つ存在として生きているからです。ヤコブの手紙は、そうした現実から目を背けることなく、信仰共同体がその中をどのように歩むべきかを示しています。

ここでヤコブは、教会が「祈り合う共同体」であるという、非常に重要なメッセージを語ります。信仰共同体とは、ただ礼拝を共にする集まりではなく、互いの弱さを担い合い、祈りによって支え合う関係を築く群れなのです。

まず、ヤコブは「病気の人への祈り」について、「教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と勧めます。病人に油を塗ることは、古代においては医学的な行為でもありました。ルカによる福音書10章34節では、良いサマリア人がけがをした人にオリーブ油とぶどう酒を注いだと語られています。しかし、それ以上に重要なのは、「主の名によって」祈るという霊的な行為と結びついていることです。

つまり、教会において、牧会者と信徒たちが苦しんでいる者のために心を一つにして祈ることは、単なる励ましを超えた力を持っているということです。信仰による祈りは、「病んでいる人を救い、主がその人を起き上がらせてくださる」 とまで約束されているのです。

特に、「罪を犯していたのであれば、主が赦してくださる(15節)」という言葉は、人の体と魂が相互に関連していることを示しています。主イエスが中風の人を癒されたとき、まず「あなたの罪は赦された(マルコ2:5)」と言われたことを思い起こさせます。さらにヤコブは「だから」という言葉を用いて、罪を告白し合い、互いのために祈ることが、教会共同体における癒しの働きの核心であることを示します。つまり、罪が取り除かれれば、祈りの力は力強く働くというのです。さらにヤコブは、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらす」と述べます。「正しい人」とは、常に神との交わりの中に生き、すべてを神にゆだね、信仰の目で神の働きを待ち望む人のことを指します。すなわち、私たちが「正しい人」となり、心を一つにして互いのために祈るとき、神はその祈りを必ず聞き、応えてくださるのです。

愛する神の家族の皆さん、キリスト者の苦難は、神が働かれるチャンスでもあります。病気や様々な苦しみに遭うとき、共同体の中で心を一つにして祈ることによって、私たちは神の働きを体験することができます。私たちは自分自身のための祈りだけでなく、共同体の他の信徒たちのためにも祈らなければなりません。とりわけ、教会の中で最も弱っている信徒のための祈りは、神が最も喜ばれ、また豊かな祝福をもたらす通路であることを、心に刻みたいものです。…“正しい人よ、信仰に基づく祈りの力を歩みましょう。”

ハレルヤ。


2025.7.6 小さな泉の恵み

 6月初旬に私の信仰の母Aさんが天に召された為、名古屋で葬儀に参列しました。

彼女はクリスチャンで、私の導き手であり、お手本であり、理想であり、私がバイオリンで賛美をする賜物を活かすよう沢山のアドバイスや資料を下さりいつも祈り見守ってくださっていた母のような存在でした。礼拝で新来会者が来れば朗らかな笑顔で世話をし、牧師先生の説教を1番前の席で相槌をうちながらメモをとり、幸せそうに楽しそうに讃美歌を歌っていたAさんの姿が忍ばれます。Aさんには3人の子供と12人の孫がいて、全員がクリスチャンです。教会で執り行われた葬儀では孫全員で素晴らしい賛美をし、出棺の時は誰からともなく『また会う日まで♪』を歌い始め、大合唱の中、明るい雰囲気でのお見送りとなりました。今頃は天国で、宣教師として奮闘され惜しまれながら亡くなられた次男との再会を喜んでいることと思います。

ここに、生前にAさんが書かれた詩の一節を紹介したいと思います。

「Aの讃歌  【すべての真実なこと】とラテン語で書かれていた。

真実ってなんだろう

ひとり思い巡らす日々

私の心には良きものがない

良いことをしようと思っても、力がない

自分の中に潜む【罪】

ああ誰かこのみにくい心を取り去ってほしい。

(省略)

もがいている私にあなたは優しく語りかけてくださった  ・・・(省略)・・・

おお主よ、感謝します。

あなたについていくと、ひとつひとつ門は開かれていった

【恐れるな】と励ましてくださった

あなたのみもとに召されるまで、主よ、私を導いてください 」      

                                K.K.姉


2025.6.29 牧師室便り

 「一日も早く帰る家を…」

先週26日(木)、6月の「能登被災地支援・小さな泉のカフェ」が柳田公民館で行われました。出発時は激しい雨でしたが、現地に着く頃には雨も上がり、美しい日差しが差し込んでいました。

今回も、柳田地区の皆さんとの温かな愛と励ましに包まれ、恵みに満ちたひとときを過ごすことができました。特に、富山市で社会的に弱い立場の方々のために尽くしてこられたH姉や、栃木県のYMCAからの4名の参加者が加わり、さらに豊かな交わりの時となりました。

印象的だったのは、有賀姉の提案で行われた「花束リレーマイク」の時間です。一人ひとりが「最近嬉しかったこと」や「神様に願っていること」を語る中で、「世界が平和になりますように」「早く自分の家に帰れますように」といった願いが多く聞かれました。

柳田地区の皆さんは、常に穏やかで笑顔を絶やさず、私たちを迎えてくださいますが、その笑顔の奥には、家を失った悲しみや、いまだ仮設住宅での生活から安定した暮らしへと移りたいという切実な思いが秘められていることに気づかされました。その姿に触れ、私たちは自然と神の憐れみと助けを祈らされました。

家を失うということは、人生そのものが崩れてしまうような悲しい出来事です。どうか、一日も早く新しい家が与えられ、安心して暮らせる日が訪れますように。そして私たちは、天の御国にイエス・キリストが備えてくださった永遠の住まいがあることを心に刻みつつ、共に歩んでまいりましょう。

これからの「小さな泉のカフェ」の働きがさらに豊かに祝福され、柳田の皆さんが神の愛に触れ、永遠の命にあずかることができますように。

シャローム。



2025.6.29 本日の宣教

  『目標を目指してひたすら走る』      

                 フィリピの信徒への手紙3章12節-4章1節

「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

私は、こうしたパウロのきっぱりとした姿勢に教えられます。信仰者として、憧れすら抱いてしまいます。イエス様は、私たちのすべてにわたる教師であり、模範とすべき聖なるお方です。そして、パウロは、同じ信徒として、主に従う者の、ものの考え方、見方を教えてくれる人であり、模範とすべき人間です。

パウロは、「既にそれを得たというわけでなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません」。ここらの言い回しは、しつこいくらいですが、どうしてこうも拘るのでしょうか。

それは、おそらく、フィリピの教会のなかに、自分は既に完全な者となったとか、既に捕えたとか、悟りを拓いたとでも言いたげな人々が、そのようなことを豪語しているような人々がいたのだと思われます。コリントの教会にもおりました。そして、そういう思想が、この時代、あらゆるここら一帯(地中海沿岸の国々、地域)に影響を及ぼしていたと言われています。グノーシスという、知識が解放す るという思想です。そして、彼らは、勝手な振る舞いをしております。

しかし、それだけではありません。彼らの振る舞いは、まさにイエス様に敵対しているかのようでした。それに対して、パウロは、自分は、そうではないと言いつつ、だからこそ、必死になって、それを追い求めていると言います。

自分を完全な者だと考えている者は、逆に、まだ、そのことを捕えていないと考えて、必死にそれを追い求めなさいと言います。完全な者となったのだから、そのような努力はもう必要ないと考えるのが道理だと思いますが、パウロは、そうではありません。

パウロは、「わたしたちの中で、完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言います。完全な者は、自分が完全でないことを知っている者であって、まだ捕えていないといった認識によって、さらに前に進んでいく者のことを言うと言っているかのようです。

つまり、パウロは、自分は完全な者にはまだなっていない、捕えようとして一生懸命に努力するのみ、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標目指してひたすら走る」のだと、そういうのです。キリスト者は途上に生きる者たちです。

                          島田 茂兄



2025.6.22 牧師室便り

 

「 平和の福音を語る勇気を!」

再び戦争が始まりました。すでに世界では二つの大きな戦争が続いている中、今、イスラエルとイランの間に新たな戦火が拡大し、第三次世界大戦へと発展する懸念すらあります。そして、アメリカがこの戦争に加わろうとしていることは、私たちに大きな不安を与えています。

なぜ、ここまで戦争が繰り返されるのでしょうか。今回の戦争は防ぐことができなかったのでしょうか。私たちは、この戦争をどう見るべきかが問われています。

聖書を信じる私たちは知っています。戦争は神が最も忌み嫌われる行為です。イエス・キリストが十字架で命を捧げて救おうとされた一人の魂に対し、戦争はその尊さを否定し、神のかたちに造られた人々を無惨に殺してしまう悲劇です。“主よ、憐れんでください!”

かつてイスラエルの民は、エルサレムの平和のために祈り続けていました。しかし今、世界で起きている三つの戦争のうち、二つがイスラエルと関わっているという現実があります。多くのクリスチャンやいわゆるキリスト教国の人々が、無条件にイスラエルの立場に立っていますが、果たしてそれが正しい姿勢でしょうか。イスラエルの行動のすべてが正義であるとは限りません。

多くの戦争は国民の意志ではなく、一部の権力者たちが自らの欲望や過ちを覆い隠すために引き起こし多くの犠牲をもたらしました。しかし、イエス・キリストは剣を取ったペトロに、「あなたの剣を鞘に納めなさい」と語り、ご自身は戦いを選ばず、十字架の道を歩まれました。

十字架は、神と人、人と人の間の敵意を取り除きました。その愛と犠牲によって、平和の道が開かれたのです。今こそ、私たちはその十字架の使命に立ち返るべきです。世界中の教会とクリスチャンが、とりなしの祈りを捧げ、赦しを語り、戦争に沈黙することなく、平和の福音を勇気をもって宣べ伝えるときです。シャローム!



2025.6.22 本日の宣教

  『 AⅠに優るもの』

              創世記2章7節

AIとはArtificial Intelligenceの頭文字をとったもので訳すと人工知能となります。AIは生活の至る所で使われようとします。現在AIは人間の最高頭脳を超えたと言われています。AIと人間との差はAIを人間だとしますと、人間は猿の知能レベルだそうです。今後AIは発展し続け、今後10年以内にはAGI(Artificial General Intelligence)訳すと人工汎用知能が活用されるということです。これは、人間のような汎用的な知能を持つ人工知能を指すもので、学習能力、意思決定能力を持つとされています。この時、人間とAGIとの能力との差は、人間と金魚ほどの差になるようです。さらに、AGIはASI(Artificial Superintelligence)(人工超知能)へと進化していくようで、あらゆるタスクや問題において人間よりも優れた能力(人間の能力の1万倍?)を持ち、自己学習や自己進化により、知識や能力を飛躍的に向上させ、人間には解決が困難なまたは不可能な問題にも解決策を見つけ出すことができるとされています。要するに、AIに聞けば何でも解決してくれる、というわけです。AIは生活の至る所に活用され、石油が私たちの生活になくてはならないものになっていったように、AIも私達の生活になくてはならないものになっていきます。まさにAI様〃の生活に変わっていきます。AIが何でも教えてくれる。解決策も提供してくれる。また、AIが作り出すバーチャル空間の中で、楽しみ、憩い、慰め合える。そこでは異なる意見は入りにくく、自分の入っ ている空間があたかも真実で正しい空間であるかのように錯覚してしまう危険性があります。また、私達は、生きる空間から神を締め出してしまう危険性があるのではないでしょうか。

私達はこれから先、AIを信頼して活用し、AIが提供してくれる情報を受け入れ、それによって自分の価値を構築し、社会で成果をあげ、認められるようになるでしょう。まさにAIこそが私達の拠り所、あたかも私たちの神であるかのような役割を果たしていくかもしれません。しかし、それでいいのでしょうか?神は私たちと親しい関係を持つために人間を作られたのではないでしょうか?神は命をかけて私たちを神との関係回復に導いてくれたのではないでしょうか? 

創世記2章7節には次のようにあります。

「その後神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻に命の息をふきこまれた。そこで、人は生き物となった。」

とあります。もし、私たちが日々、神様と交わり、神様の命の息をふきこまれなかったら、人の1万倍の頭脳を持つようになると言われているAI時代の中で価値を失い、地のちりとして、または生きた化石として生きる他なくなるのかもしれません。しかし、そのような私達に対して、私達の神となり、日々命を与え、愛し、導いて下さる神様に今日も応答しようではありませんか。

                          S.H.姉

2025.6.22 小さな泉の恵み

 みなさんこんにちは。

私の職場の空調はものすごく年代ものです。建物自体が古いので仕方がない訳ですが、暑い季節がやってきますと、ちゃんと稼働できるのかと不安になります。といいますのは、何度も故障しており、修理に時間がかかるからです。真夏に故障し、職場にいると意識を失いそうになった経験があります。職場はしばらく近くのホテルを借りて、そこで業務を行うようにと緊急手段を取りました。今年ははたしてどうなるのか。これまで6月から稼働したことは記憶にない。でも天気予報をみると30度越えの予報。ドキドキしながら出勤すると、すうっとした風が!助かったと心から思いました。あとは故障しないことを祈るばかりです。実は仕事場は来年3月に隣に建てている新しいところに移転します。空調でドキドキする夏も今年が最後かもしれません。

人生はドキドキの連続です。この地でもがき苦しみます。わらをもつかみたい気持ちを何度も経験します。ただ、それでも生かされてある身なのです。一体なぜだろう。神は聖書を通して全てが新しくなるという約束を示してくださっています。神は約束を必ず守ります。

故障だらけの私ですが、すっかり新しくすると神は仰ってくださいます。何という幸いでしょう。

皆様の健康が守られますように。

                             E.N.兄