『 兄弟愛にいっそう励む教会 』
テサロニケの信徒への手紙一 4章9~12節
テサロニケの教会は、パウロの宣教活動の中でも、特に短い期間で生まれた教会でした。けれども彼らは、迫害の中にあっても信仰を捨てず、互いに助け合いながら主に仕えていました。パウロはそのことを聞いて心から喜び、「兄弟愛については改めて教える必要がない」と書き送ったのです。ここでの「兄弟愛」(ギリシア語:フィラデルフィア)は、「信仰によって一つにされた兄弟姉妹の愛」を意味します。
パウロは「あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられている」(9節)と言います。これは実に美しい表現です。愛とは、人間が努力して学ぶものではなく、神ご自身が教えてくださるものだという意味です。
ヨハネの手紙には、「愛は神から出るものである」(Ⅰヨハネ4:7)とあります。人は神に愛されたとき、初めて人を愛する力を与えられます。私たちが互いに赦し、仕え、助け合うことができるのは、神がまず私たちを赦し、受け入れてくださったからです。
テサロニケの信徒たちは、その神の愛に教えられた人々でした。彼らは単なる仲間としてではなく、「兄弟姉妹」として互いを支え合いました。血のつながりを超えた霊的な家族、それが教会の姿です。さらに彼らの兄弟愛は、「テサロニケ教会のみならず、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行している」と言われるほどでした。
それでもパウロはそこに満足せず、「いっそう励むように」と勧めています。この言葉には、愛がすでにあることを 喜びつつ、愛が完成されるまで成長し続けてほしいという願いが込められています。愛は、決して一度で完成するものではありません。愛は動詞です。生きて働き、形を変えながら続いていくものです。
ところが、テサロニケの教会には一つの課題がありました。それは、主の再臨を待ち望むあまり、日々の働きをおろそかにする人たちがいたということです。彼らは「どうせこの世は終わるのだから」と言って仕事をやめ、他人に頼るようになっていました。パウロはそれを戒め、「落ち着いた生活をすること」を勧めたのです。
テサロニケの教会へのパウロの「兄弟愛の勧め」は、主の再臨に関する教えと深く結びついています。つまり、終わりの日を待ち望む教会がどのように生きるべきか、その答えがここにあるのです。
主の再臨を信じる者とは、ただ空を見上げて時を数えるのではなく、地に足をつけて愛に生きる者です。終わりの日への最も確かな備えは、兄弟愛に励むことです。再臨の信仰は、私たちを現実世界から逃げさせるのではなく、キリスト者としての責任へと導きます。「どうせこの世は滅びるのだから」ではなく、「だからこそ、今を誠実に生きよう」と私たちを動かすのです。
愛する神の家族の皆さん、愛に「もう十分」ということはありません。神が私たちを今も愛しておられるように、私たちもまた、いっそう励み続けるのです。
兄弟愛に生きる教会、それこそが、終わりの時代を生きる教会の姿です。ハレルヤ!