2025年10月11日土曜日

2025.10.12 牧師室便り

 「弱さの中に現れる主の恵み」 

先週の後半、二人の姉妹を訪問しました。

まず木曜日には、M姉のご自宅で家庭礼拝をささげました。今年に入ってから体調を崩され、吐き気や眠れない日々が続き、なかなか主日礼拝に集うことが難しくなっておられます。

そんな中で姉妹は、「礼拝に行きたいけれど、辛くて行けません」「早く元気になって礼拝に出席したい」と願い、「家庭礼拝を行ってほしい」と求められたのでした。…家庭礼拝の途中、姉妹は何度も吐き気に苦しみながらも、真剣に祈りと賛美を献げられました。苦しみの中にあっても真心から礼拝をささげる姿勢に、私も深く心を動かされました。

家庭礼拝で分かち合った御言葉は、「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださった」(Ⅱテモテ1:7)でした。弱さと不安の中にあるM姉の信仰を主が励まし、聖霊の力と愛で癒してくださることを信じて祈りました。

翌日は、高岡の病院に入院しているY姉を訪ねました。体は以前よりも弱り、顔は先日転んだことで痣だらけで、姿勢を整えて座ることも難しい状態でしたが、牧師の訪問を心から喜び、祈祷会の皆さんからのハガキを嬉しそうに受け取ってくれました。
そして前回と同じように、「父の涙」を一節一節、間違えることなく歌い終えられました。その姿に、神様の臨在と深い喜びを感じました。

弱さは決して、神を礼拝することや、神に愛されることを妨げるものではありません。むしろ、弱さの中にこそ主は共におられ、その魂の礼拝を喜んで受け入れてくださるのです。
どうかM姉とY姉、そして神の家族お一人おひとりの日々が、主に喜ばれる礼拝と賛美に満たされますように。主の恵みと慰めが、すべての弱さの中にある神の家族の上に豊かに注がれますように。
シャローム。

2025.10.12 本日の宣教

  『  兄弟愛にいっそう励む教会  』

                 テサロニケの信徒への手紙一 4章9~12節

テサロニケの教会は、パウロの宣教活動の中でも、特に短い期間で生まれた教会でした。けれども彼らは、迫害の中にあっても信仰を捨てず、互いに助け合いながら主に仕えていました。パウロはそのことを聞いて心から喜び、「兄弟愛については改めて教える必要がない」と書き送ったのです。ここでの「兄弟愛」(ギリシア語:フィラデルフィア)は、「信仰によって一つにされた兄弟姉妹の愛」を意味します。

パウロは「あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられている」(9節)と言います。これは実に美しい表現です。愛とは、人間が努力して学ぶものではなく、神ご自身が教えてくださるものだという意味です。

ヨハネの手紙には、「愛は神から出るものである」(Ⅰヨハネ4:7)とあります。人は神に愛されたとき、初めて人を愛する力を与えられます。私たちが互いに赦し、仕え、助け合うことができるのは、神がまず私たちを赦し、受け入れてくださったからです。

テサロニケの信徒たちは、その神の愛に教えられた人々でした。彼らは単なる仲間としてではなく、「兄弟姉妹」として互いを支え合いました。血のつながりを超えた霊的な家族、それが教会の姿です。さらに彼らの兄弟愛は、「テサロニケ教会のみならず、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行している」と言われるほどでした。

それでもパウロはそこに満足せず、「いっそう励むように」と勧めています。この言葉には、愛がすでにあることを 喜びつつ、愛が完成されるまで成長し続けてほしいという願いが込められています。愛は、決して一度で完成するものではありません。愛は動詞です。生きて働き、形を変えながら続いていくものです。

ところが、テサロニケの教会には一つの課題がありました。それは、主の再臨を待ち望むあまり、日々の働きをおろそかにする人たちがいたということです。彼らは「どうせこの世は終わるのだから」と言って仕事をやめ、他人に頼るようになっていました。パウロはそれを戒め、「落ち着いた生活をすること」を勧めたのです。

テサロニケの教会へのパウロの「兄弟愛の勧め」は、主の再臨に関する教えと深く結びついています。つまり、終わりの日を待ち望む教会がどのように生きるべきか、その答えがここにあるのです。

主の再臨を信じる者とは、ただ空を見上げて時を数えるのではなく、地に足をつけて愛に生きる者です。終わりの日への最も確かな備えは、兄弟愛に励むことです。再臨の信仰は、私たちを現実世界から逃げさせるのではなく、キリスト者としての責任へと導きます。「どうせこの世は滅びるのだから」ではなく、「だからこそ、今を誠実に生きよう」と私たちを動かすのです。

愛する神の家族の皆さん、愛に「もう十分」ということはありません。神が私たちを今も愛しておられるように、私たちもまた、いっそう励み続けるのです。

兄弟愛に生きる教会、それこそが、終わりの時代を生きる教会の姿です。ハレルヤ!


2025.10.12 小さな泉の恵み

 「知らされなかった者が見る」 

パウロの言葉を読むとき、わたしは「道の途中」に立っているような気持ちになります。 彼はすでに多くを成し遂げた人でしたが、それでも「まだ知られていないところへ行きたい」と願っていました。誰も耕していない地に、神の愛の種をまく。それが、彼の誇りであり、喜びでした。 けれども、その誇りは「自分の力」ではなく、「キリストにあっての誇り」だと彼は言います。 

私たちはつい、人の評価や成果で自分を測ってしまう。 けれどパウロは、「キリストが私を通してなさったこと以外は誇らない」と言うのです。つまり、神の働きが私を通って流れたとき、それがすべてだ、と。 わたしも、能登や富山での支援や小さな奉仕をしていると、 「どれだけの人が救われただろう」「意味があったのだろうか」と思う瞬間があります。 「彼のことを告げられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟る。」 (ローマ人への手紙15章21節) この言葉は、私たちの力を超えて働く神の約束のように響きます。 見えないところで、人知れず、心が動かされ、希望の灯がともる。 そのすべてが、神の愛の“しるし”なのだと思います。 

わたしはこれからも、小さな場であっても、キリストにあって誇りを持ち、静かに仕えます。語らずとも、行いのうちに福音が香るように。 そしていつの日か、誰かの目に「愛のしるし」が映るとき、確かにそれが神ご自身の働きだったと気づけるように。

                                A.M.姉

2025.10.5 牧師室便り

 「 すべては主の恵みです 」

昨年から今年にかけて、私たち小泉町教会に与えられた数多くの祝福の中で、最も大きなものは「小さな泉のカフェ」でありましょう。能登大地震という悲しい出来事をきっかけに始まったY地区の皆さんとの交わりですが、神はその交わりを大いに祝福してくださり、村の方々と驚くほど豊かな絆を築くことができました。

今年度もすでに半分が過ぎ、残された時間もわずかです。以前から皆さんとも話し合ってきたように、「小さな泉のカフェ」の働きは2025年度までを一区切りとし、その後については未定であるとお伝えしてきました。その時まで最善を尽くしてY地区の方々に仕えていきたいと願っています。

ところが前回のカフェの折、M主事から「今年度で終わるのでしょうか」と寂しそうに尋ねられました。また、集っておられる方々が「いつも楽しみに待っていました」「最初から一度も休まず来ています」と笑顔で語られる姿を見ながら、心から感謝があふれ、新たな祈りへと導かれました。そのためM主事には、「もしY地区の皆さんが望まれるなら、回数は減るかもしれませんが、定期的に伺いたいと思います」とお答えしました。今後は皆さんと相談しつつ決めていきたいと思います。回を重ねるたびに、Y公民館での交わりの豊かさと、皆さんが心待ちにしてくださっている姿を実感しています。もしこの働きを神がさらに望まれるのであれば、私たちは御言葉に従わなければなりません。

いつもお伝えしていることですが、人との出会いに偶然はありません。どんな出会いにも神の導きと御業があります。これまでそのことを幾度となく体験してきました。私たちにできることを最善を尽くして行いながら、これからの働きとY地区の皆さんとの交わりを期待していきたいと思います。

Y地区の皆さんが「お腹も心もいっぱい満たされた」と喜んで帰って行かれる姿、そしてカフェの中で歌ったゴスペル「めぐみ」の歌詞を受けてU館長が冗談交じりに語られた「そうですね。すべてが主の恵みですね」という言葉…。その瞬間、ああ、彼らの心にもすべてが主の恵みとして届いているのだなと思い、嬉しくなった私でした。シャローム。



2025.10.5 本日の宣教

  『  神に喜ばれるために  』

                   テサロニケの信徒への手紙一  4章1~8節

私たちの人生は、誰かに喜ばれるために生きていると言えるでしょう。子どもであれば親に、夫婦であれば互いのために、学生であれば教師や仲間に、社会人であれば上司やお客様に喜ばれようと努めます。

しかし聖書は、すべての人間関係を超えて、私たちが「神に喜ばれるために」生きるよう招いています。

「神に喜ばれるために生きる」ことこそ、キリスト者の生涯における目標であり、使命です。その中でも、神に喜ばれるための最も大切な場こそ、礼拝の場であるでしょう。礼拝こそ、神にお会いする場であり、神の御業を賛美し、自分自身を神に献げるための場です。私たちは何よりも、神に喜ばれるためにここに集っているのです。

神に喜ばれるということは、使徒パウロが繰り返し用いた大切な言葉です。パウロは、自らの働きを終える時まで、すべてのことを「神に喜ばれるために」歩んでいると語りました。その中心的な教えが、ローマの信徒への手紙12章1~2節に記されています。

「…自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

パウロは、自分の体を「神に喜ばれる生けるいけにえ」として献げることこそ、キリスト者の真の礼拝であると強調しています。そして、生けるいけにえとしての具体的な生き方を示しています。救われた者の信仰は、言葉や知識にとどまらず、行いによって表されなければなりません。心に抱く思いや頭に蓄えた知識を、具体的に「体 をもっての行動」へと移すこと、しかも「神に喜ばれる」という目的と土台の上で行うことこそが、礼拝なのです。

パウロは、きょうのテサロニケ教会への手紙の中でも、「神に喜ばれるために」どうあるべきかについて、具体的な指針をもって勧めています。

「神に喜ばれる」という表現は、私たちに二つのことを思い起こさせます。第一に、神がすでに私たちを愛してくださっているという前提です。私たちは神に愛されているからこそ、その愛に応答して生きるのです。第二に、神の喜びは人間の一時的な評価とは異なり、永遠に変わらないという点です。人に喜ばれることを追い求めると、私たちは常に比較や競争、そして失望の中を生きることになります。しかし神に喜ばれる歩みは、神ご自身の御心に根ざしているため、揺らぐことのない確かさを与えます。

そこでパウロは、神に喜ばれる生き方の核心を「聖なる生活」として示します。 「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。(4:7)」

聖なる生活を自分の力だけで生きることは不可能です。しかし、私たちのうちに住まわれる聖霊は、私たちを助け、罪を示し、悔い改めへと導き、神に喜ばれる新しい生き方を開いてくださいます。そして、神に喜ばれる道を歩む力を与えてくださいます。

ハレルヤ!


2025.10.5 小さな泉の恵み

 ~神様によって変えられた可能性のある選択について~

 「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った」民数記9:23

 私は仕事の都合で、福岡から、長崎、福岡、秋田、富山へ転勤しましたが、神様からの働きかけの可能性を後から感じる瞬間がありました。一番それを痛感したのが、長崎にいたときです。仕事があまりにも辛く、時々福岡に戻ってはピアノを弾く友達と  2人で賛美をしていました。ずっと2人だけで賛美するのはよくないと思いながらも、平尾教会には礼拝中以外に一緒に賛美できる人がいないこともあり、精神的に追い詰められ、他の教会の青年会の有志と共にコロナの影響により実施できるか分からない状況のなかで賛美集会をしました。長崎での仕事があまりにも辛く、当時3.11関係の論文を書こうとしていたこともあり、東北へ異動を希望し、秋田で約3年いたときも仕事の負担が大きく、論文のフィールドワークの目途がついたこと、能登半島沖地震が起きたこと、平良先生が福井教会へ異動されたこともあり、北陸へ異動を希望しました。私は逃げてばかりの人生ですが、苦しみの中でも神様の示す道がないか祈り求めるばかりです。                

                             N.Y.兄