『 福音を恥としない私 』
ローマの信徒への手紙 1章16~17節
日本の文化を説明する一つのキーワードに「恥の文化」があります。私たちは常に「人の前で恥をかきたくない」「人に自分の恥を見せたくない」という思いを持っています。人は誰でも、自分の弱さや失敗を隠そうとします。そして「恥」と思う基準の多くは、他人の目に置かれています。「人からよく見られたい」「人に認められたい」「恥をかきたくない」という願望が、私たちの心の深いところにあるのです。
皆さんにとって「恥」と感じるものは何でしょうか。どうしても人に見せたくない過去、思い出すと小さくなってしまう弱さや失敗。誰もがそのような「恥」を抱えているのではないでしょうか。
本日の御言葉でパウロは、大胆に「わたしは福音を恥としない」と宣言します。なぜ彼はこんなことを言ったのでしょうか。
それは、当時のローマ・ギリシアの文化において、十字架の福音を語ることはまさに「恥」であったからです。十字架は最も罪深い者を処刑するための道具でした。裸にされ、群衆の前で嘲られ、最も屈辱的な死を迎える。十字架刑とは、人間にとって究極の恥辱を意味しました。 その十字架に、神のひとり子イエス・キリストがかけられて死なれた。これがキリスト教の福音です。当時の人々から見れば、それは「口にするのも恥ずかしい」も のでした。だからこそ、福音を語ることをためらう人が多くいたのです。けれどもパウロは宣言します。「私は福音を恥としない」。なぜなら、十字架こそが「神の力」だからです。
人間にとって「恥の極み」であった十字架は、今や私たちにとって「愛の象徴」「救いの象徴」「誇りの象徴」とされています。これは驚くべき逆転です。
すなわち、神は「恥」を「誇り」に変えるお方です。パウロは別の手紙で「私は自分の弱さを誇ります」とも言いました。人間の基準では弱さや恥とされるものを、神は恵みによって誇りに変えてくださるのです。
皆さんが抱える「どうしても隠したい恥」も、キリストの十字架に結ばれるとき、それは神の栄光を表す器へと変えられます。イエス・キリストが私たちの罪を担い、命を捨ててまで愛してくださったからこそ、私たちはありのままで神の前に出ることができるのです。
十字架という「恥の象徴」は、今や「救いと誇りの象徴」となりました。同じように、私たちが抱える恥も、弱さも、キリストの愛によって誇りに変えられるのです。どうか私たちも、福音を隠さず、むしろ誇りとして歩んでいきましょう。「正しい人は信仰によって生きる」。この御言葉の通りに、信仰をもって生き抜く者とされたいと願います。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿