『 神に選ばれた私たち 』
テサロニケの信徒への手紙一1章4~10節
先週、私たちはテサロニケ教会の信徒たちが「信仰による働き、愛のための労苦、希望をもって忍耐していた」ことを分かち合いました。
続いてパウロは、彼らに「あなたがたは神に愛され、選ばれている」と告げます。選ばれるということは、私たちの努力や資格によるのではなく、神の主権的な恵みによるのです。
この世の選びの基準と神による選びの基準はまったく異なります。この世の選びは、その人が他の人よりもさまざまな面で優れていることに基づいています。しかし神は、かえって他の人より弱く小さい者、誇ることのない者を選び、その人を通して御業を成し遂げられました。イスラエルの民が選ばれたこともそうですし、十二弟子を選ばれた時も同じでした。まさしく神の選びの基準は、ただ神の愛と恵みという一点にあることを心に留めましょう。それは教会においても同じです。
パウロは続けて、福音がテサロニケ教会にどのように伝えられたかを語ります。「言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信(5節)」とによったからだと。そうです。福音は単なる宗教的知識ではなく、人を内側から変える力を持っています。テサロニケ教会の人々は偶像を拝む文化の中に生きていました。都市に立ち並ぶ神殿、祭りや経済活動と密接に結びついた偶像礼拝。それを 拒むことは、社会の一員としての生活そのものを危うくすることを意味しました。しかし彼らは偶像を捨て、「生ける真の神」に立ち帰ったのです。この大胆な変化こそ、福音の力が働いた証しでした。
さらにパウロは、テサロニケの信徒たちが「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」と記します。信仰を持つことは決して安易な道ではありません。むしろ彼らは信仰のゆえに迫害を受け、社会から排斥されました。それでも彼らは喜びを失わなかったのです。ここに見られる「聖霊による喜び(6節)」は、人間的なポジティブさとは異なります。状況や感情に左右されない、神の臨在によって与えられる深い喜びです。
このように選ばれた者としての歩みは、必ず周囲に影響を及ぼします。テサロニケの信徒たちの信仰は、マケドニアやアカイア州にまで知られるようになりました。彼らは自分たちが模範になることを意識していたわけではありません。ただ信仰に忠実に生きただけです。しかし、その姿が他者を励まし、信仰を伝える証しとなったのです。
私たちもまた同じ選びの中にあります。神に選ばれたことは、私たちの自慢ではなく、神の恵みの証しです。その選びに応えて、偶像から離れ、生ける神に仕え、再臨の主を待ち望む歩みを続けたいものです。ハレルヤ!
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