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2025年7月26日土曜日

2025.6.29 本日の宣教

  『目標を目指してひたすら走る』      

                 フィリピの信徒への手紙3章12節-4章1節

「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

私は、こうしたパウロのきっぱりとした姿勢に教えられます。信仰者として、憧れすら抱いてしまいます。イエス様は、私たちのすべてにわたる教師であり、模範とすべき聖なるお方です。そして、パウロは、同じ信徒として、主に従う者の、ものの考え方、見方を教えてくれる人であり、模範とすべき人間です。

パウロは、「既にそれを得たというわけでなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません」。ここらの言い回しは、しつこいくらいですが、どうしてこうも拘るのでしょうか。

それは、おそらく、フィリピの教会のなかに、自分は既に完全な者となったとか、既に捕えたとか、悟りを拓いたとでも言いたげな人々が、そのようなことを豪語しているような人々がいたのだと思われます。コリントの教会にもおりました。そして、そういう思想が、この時代、あらゆるここら一帯(地中海沿岸の国々、地域)に影響を及ぼしていたと言われています。グノーシスという、知識が解放す るという思想です。そして、彼らは、勝手な振る舞いをしております。

しかし、それだけではありません。彼らの振る舞いは、まさにイエス様に敵対しているかのようでした。それに対して、パウロは、自分は、そうではないと言いつつ、だからこそ、必死になって、それを追い求めていると言います。

自分を完全な者だと考えている者は、逆に、まだ、そのことを捕えていないと考えて、必死にそれを追い求めなさいと言います。完全な者となったのだから、そのような努力はもう必要ないと考えるのが道理だと思いますが、パウロは、そうではありません。

パウロは、「わたしたちの中で、完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言います。完全な者は、自分が完全でないことを知っている者であって、まだ捕えていないといった認識によって、さらに前に進んでいく者のことを言うと言っているかのようです。

つまり、パウロは、自分は完全な者にはまだなっていない、捕えようとして一生懸命に努力するのみ、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標目指してひたすら走る」のだと、そういうのです。キリスト者は途上に生きる者たちです。

                          島田 茂兄



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