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2025年9月30日火曜日

2025.9.28 牧師室便り

「霊的なナショナリズムを生きる」 

先日、アメリカでクリスチャンであり社会運動家のチャリー・カーク氏が、31歳の若さで暗殺されました。犯人は逮捕されたものの、いまだに犯行の理由は明らかにされていません。保守的な信仰を持つクリスチャンからは「偉大なクリスチャンで、世界的な影響力をもつ人物」と評価される一方、反対の立場からは「右翼思想を持ち、人種主義的で差別的発言を繰り返した人物」として批判されています。

しかし、この暗殺事件は個人の悲劇にとどまらず、暴力に訴える風潮が強まる現代社会の危機を映し出しています。SNSやメディアによって分断は拡大し、敵意は増幅され、人間は「対話する存在」ではなく「排除すべき敵」として扱われやすくなっています。その空気の中で暗殺という極端な行為が生まれたことは、「異なる声を生かす力」を失いつつある社会の現実を示しているのです。

一方、中東ではイスラエルによるパレスチナへの抹殺的政策が進められ、多くのパレスチナ人が追い出され、命を奪われています。国家の安全保障の名のもとに人間の尊厳が踏みにじられ、また世界各地で高まる自国中心主義や人種主義は、人々を分断し、国際的な協力を弱め、敵意と復讐を正当化する空気を生み出しています。

こうした状況において、キリスト教会とキリスト者は、何よりもまず「神の国と神の義を求める信仰」を確かにしなければなりません。主イエスが剣を収めるように語り、敵を愛することを命じられたことを心に刻み、平和を作り出す者として歩むのです。常に「神の国の民」としてのアイデンティティを持ち、いついかなる場においても分断を超えた和解の共同体を築き、互いを神の似姿に創造された存在として受け入れることこそ、福音を実践する道なのです。

パウロが「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離されてもよいとさえ思っています(ローマ9:3)」と語ったように、私たちも日本の国と民を愛し、命をかけて福音を宣べ伝える「霊的なナショナリズム」を生きる神の家族でありますように…。シャローム。



2025.9.28 本日の宣教

 『  御言葉で変えられた私  』

                      イザヤ 40章7~8節

9月は教会学校月間なので、私に教会学校の証しをと今回の機会が与えられました。 現在、教会学校は礼拝前に約30分間の短い時間ですが、聖書の御言葉を学んでおります。教会学校は年齢層別に小学科、中高科、成人科(2グループ)に分かれて実施されており、私は成人科2グループのうちの1グループの奉仕を務めております。 時には成人科は1、2グループ合同で行うこともあります。しかし残念ながら参加人数はあまり多くありません。 教会学校は聖書の学びの入り口ですから、多くの方の参加を切望します。

私は長らく教会を離れていた時がありました。その時は恥ずかしながら、自己破産寸前の厳しい経済状況に陥っていました。また悪いことに体に前立腺癌が発見され、当時は癌といえば死を連想させるもので大変なショックを受けました。その時は心の中で“神様助けて~”と叫んでいました。そのような状況下で私は何か心の支えになるものを求めておりました。その時、旧約聖書で見つけた神の御言葉は、「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ40:7-8)」 この御言葉は、私たちの目の前にある見えるものはやがては消えていくものですが、永遠の神、その神から与えられた愛の言葉、約束と希望の言葉は決して消えないものであり、それは神の永遠の命が働いているからであると分かりました。 この御言葉に刺激を受けて、私は心の支えを持つ者に変えられたのです。さらに、御子であるイエス様が、私たちの罪の贖いのために十字架にかかり、血潮を流して死んで下さいました。そのお陰で私たちの罪が赦され、神様との正しい関係を持つことができました。 また、イエス様が三日目に復活され、私たちに永遠の命を与えて下さいました。この事実をしっかり心に受け入れて救われた私たちクリスチャンとして、改めて今、生かされていることを確信するものとなりました。 

今や人生百年時代とも言われますが、長い人生の間には多くの試練がありますが、神様は耐えられない試練は与えられないと信じております。御言葉は人生の歩むべき道を教え、正しく導いて下さいますから、御言葉を学ぶことは大変大切です。 私は御言葉を学ぶために現在も火曜日の聖書の学びに参加しております。ここで少し火曜日の聖書の学びについて触れますが、この学びは聖書全体に亘り、 先生がわかりやすい説明文を作ってくださり、聖書の本文を読んだ後にその説明文で詳しくかつわかりやすく説明してくださるので、格段に聖書理解を深めることができます。ぜひ多くの方が参加くださるように希望します。 

最後になりますが、私はいつも苦しく困難な時には、「困難は忍耐を、忍耐は連達を、連達は希望を生む」という御言葉を自分に言い聞かせ、 またイエス様だったらどうされるかなぁと考えながら、これからも御言葉に生きる従順な人生を、教会生活を皆さんと聖霊様の助けと導きを受けながら送りたいと思っています。      

                              I.H.兄


2025.9.28 小さな泉の恵み

 皆さん、こんにちは!!

久しぶりの小さな泉の恵みです。相変わらずのつたない文章でお許しください。

夏バテが急に来たのか分かりませんが、体調崩しがちでした。 皆さんは、この 1週間、如何お過ごしでしたか?

この1週間、体調崩しながらでも仕事には行っていました。

ある日、仕事を終え事務所に戻って来た途端、パートナーから「あんたが最後だから、ゴミ袋をもって来るべきでしょ?それに、ゴミもあったし」と怒鳴って来ました。そこで、私の方が我慢すべきではありましたが、余りにも理不尽な事だったので、「あんたの仕事でしょ?もし、やって欲しいのであればお願いして欲しい。お願いしてしなかったら、怒鳴られても仕方がないけど」と言い返してしまいました。それだけではないのですが、これを書きながら、なんで怒って言い返したのか?お前は、何様やねんと。

そこが、私の悪い癖であり、弱さなんでしょうね?

そういったのも含め、福音の力を信じ、弱さを誇り、謙遜な自分になれますようにイエス様、聖霊様、お力をお貸しください。

                          Y.H.兄

2025年9月26日金曜日

2025.9.21 牧師室便り

 「 たとえ見えなくても 」 

先週、新しいメガネを購入しました。55歳を過ぎてから急激に老眼が進み、近くの文字がはっきり見えなくなったからです。これまで宣教の原稿はwordの10.5ポイントでも問題なく読めていましたが、今では12ポイントにしても見づらく、不便を感じるようになり、思い切って遠近両用メガネを作ることにしました。

ふと、このまま目が悪くなり、もし見えなくなる日が来たらどうだろう、と考えました。おそらくそうはならないでしょうが、もしその時が訪れるなら、私はその弱さを通して、見えないけれど確かな神の光と、天の御国にある栄光と希望を語るのだろうと思います。周囲には迷惑をかけるかもしれませんが、思い起こしたのは盲目の賛美歌作者ファニー・クロスビーのことです。彼女は幼くして視力失いながらも、御言葉を耳で聞き、イエス・キリストに出会いました。そして「天に帰った時、最初に見るのはイエス様」と希望を抱き、生涯にわたり数えきれない詩を残しました。

福音書の主イエスは盲人を癒しつつ、「本当の盲目は誰か」を問いかけられます。体の目が見えないことよりも、霊の目が閉じていることこそが真の盲目なのです。今回の眼鏡を作る出来事を通しても、多くを教えられました。

皆さんはいかがでしょうか。目は元気ですか。見るべきものを見て、神を賛美しているでしょうか。たとえ見えない日が訪れても、失望せず、天の御国を仰ぎ見て証しをする者でありたいものです。そのために今のうちに御言葉を心に蓄えましょう。たとえ目が見えなくても、御言葉が私たちを支え、キリストの愛を伝える力となります。そして肉体の目が衰えても、聖霊によって内なる人の目をさらに澄ませ、日々を力強く歩んでまいりましょう。

シャローム。



2025.9.21 本日の宣教

 『  福音を恥としない私  』

                    ローマの信徒への手紙 1章16~17節

日本の文化を説明する一つのキーワードに「恥の文化」があります。私たちは常に「人の前で恥をかきたくない」「人に自分の恥を見せたくない」という思いを持っています。人は誰でも、自分の弱さや失敗を隠そうとします。そして「恥」と思う基準の多くは、他人の目に置かれています。「人からよく見られたい」「人に認められたい」「恥をかきたくない」という願望が、私たちの心の深いところにあるのです。

皆さんにとって「恥」と感じるものは何でしょうか。どうしても人に見せたくない過去、思い出すと小さくなってしまう弱さや失敗。誰もがそのような「恥」を抱えているのではないでしょうか。

本日の御言葉でパウロは、大胆に「わたしは福音を恥としない」と宣言します。なぜ彼はこんなことを言ったのでしょうか。

それは、当時のローマ・ギリシアの文化において、十字架の福音を語ることはまさに「恥」であったからです。十字架は最も罪深い者を処刑するための道具でした。裸にされ、群衆の前で嘲られ、最も屈辱的な死を迎える。十字架刑とは、人間にとって究極の恥辱を意味しました。 その十字架に、神のひとり子イエス・キリストがかけられて死なれた。これがキリスト教の福音です。当時の人々から見れば、それは「口にするのも恥ずかしい」も のでした。だからこそ、福音を語ることをためらう人が多くいたのです。けれどもパウロは宣言します。「私は福音を恥としない」。なぜなら、十字架こそが「神の力」だからです。

人間にとって「恥の極み」であった十字架は、今や私たちにとって「愛の象徴」「救いの象徴」「誇りの象徴」とされています。これは驚くべき逆転です。

 すなわち、神は「恥」を「誇り」に変えるお方です。パウロは別の手紙で「私は自分の弱さを誇ります」とも言いました。人間の基準では弱さや恥とされるものを、神は恵みによって誇りに変えてくださるのです。

 皆さんが抱える「どうしても隠したい恥」も、キリストの十字架に結ばれるとき、それは神の栄光を表す器へと変えられます。イエス・キリストが私たちの罪を担い、命を捨ててまで愛してくださったからこそ、私たちはありのままで神の前に出ることができるのです。

 十字架という「恥の象徴」は、今や「救いと誇りの象徴」となりました。同じように、私たちが抱える恥も、弱さも、キリストの愛によって誇りに変えられるのです。どうか私たちも、福音を隠さず、むしろ誇りとして歩んでいきましょう。「正しい人は信仰によって生きる」。この御言葉の通りに、信仰をもって生き抜く者とされたいと願います。ハレルヤ!


2025.9.21 小さな泉の恵み

 ~今日も走るよ1122号!~

 私が今乗っている車は、夫のTが くも膜下出血で倒れた翌年の2008年に,障害者となった夫のために購入した介護仕様の車です。購入時に車のナンバーをどうしますかと聞かれ、闘病生活も「いい夫婦」でいられるようにと1122をお願いしました。

そして私たちの相棒となった1122号は、コロナ禍になる前の年まで、夫を乗せて色々な 所へと走り、その役割を果たしてくれました。同時に私を夫の入院・入所している場所まで日々運んでくれ、また日常の場面でもなくてはならない相棒として17年間一度も故障することなく本当に良く走ってくれています。17年175800㎞。自分でもこんなに長い年月・キロ数を走るとは思っていなかったので驚きです。

 その1122号が先日とうとう故障しました。それは、親戚数人を乗せて上市町まで出かけた時で、それまで快調に走っていた車が目的地までの往復を済ませ家に帰りついたと同時に動かなくなったのです!今その車は二つの部品交換だけで再び動くようになり、今日も快調に走ってくれています。車の買い替えも考えたのですが、Tさんの闘病・介護と共に歩んできた1122号を廃車にするのは忍びなく、修理して下さった方の「まだまだ大丈夫ですよ」の言葉を信じて今日も走っています。

修理が済んだ日、健気に走る車を運転しながら、「命は主のもの、今日も感謝!」という言葉が浮かんだ私でした。 

                              S.Y.姉     


2025.9.14 牧師室便り

 「 自然が語る知恵に目を向ける 」 

最近、教会の花壇にマリーゴールドが咲いています。遠くからは鮮やかなオレンジ色が目を引きますが、近づくと例年とは違い、元気なく歪んだ花や枯れてしまった茎が目につきます。毎日欠かさず水をやっても、この夏の酷暑と少雨には耐えられなかったのでしょう。

同じことは野菜や果物にも表れています。スーパーでは価格が高騰し、特に梨の小ささに驚かされます。例年のような大きな実を得るには高価な代償を払わなければなりません。自然の厳しさを改めて感じさせられます。

私たちは日々の生活で、快晴が続くことを望みます。雨や台風、大雪は不便をもたらすからです。けれども神は、大自然を造られたとき、太陽だけでなく、雨も、風も、雪も造られました。そしてそのすべてを秩序の中で治め、豊かな命を育むために働かせておられます。本来、人はその自然を管理する使命を委ねられていました。しかし現実には、欲望のままに自然を壊し、目先の楽しみにとらわれ、将来への備えを怠ってきました。その結果、私たちは今、厳しい現実の中に生きているのです。

私たちの人生も同じです。誰もが困難や試練のない、楽しく健康で豊かな生活を望みます。そこで一度試練に出会うと、不満を言ったり、人のせいにしたり、時には神を恨んだりしてしまうものです。けれども自然が晴れの日だけでなく、雨や台風や雪を通して命を育むように、私たちの人生もまた試練や予期せぬ出来事を通して美しい花を咲かせ、豊かな実を結ぶことができるのです。

収穫の季節である秋を迎える今、自分の生活と人生を振り返り、神が備えられた秩序と恵みをもう一度見つめ直してみましょう。シャローム。




2025.9.14 本日の宣教

 『  神に選ばれた私たち  』

                テサロニケの信徒への手紙一1章4~10節

先週、私たちはテサロニケ教会の信徒たちが「信仰による働き、愛のための労苦、希望をもって忍耐していた」ことを分かち合いました。

続いてパウロは、彼らに「あなたがたは神に愛され、選ばれている」と告げます。選ばれるということは、私たちの努力や資格によるのではなく、神の主権的な恵みによるのです。

この世の選びの基準と神による選びの基準はまったく異なります。この世の選びは、その人が他の人よりもさまざまな面で優れていることに基づいています。しかし神は、かえって他の人より弱く小さい者、誇ることのない者を選び、その人を通して御業を成し遂げられました。イスラエルの民が選ばれたこともそうですし、十二弟子を選ばれた時も同じでした。まさしく神の選びの基準は、ただ神の愛と恵みという一点にあることを心に留めましょう。それは教会においても同じです。

パウロは続けて、福音がテサロニケ教会にどのように伝えられたかを語ります。「言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信(5節)」とによったからだと。そうです。福音は単なる宗教的知識ではなく、人を内側から変える力を持っています。テサロニケ教会の人々は偶像を拝む文化の中に生きていました。都市に立ち並ぶ神殿、祭りや経済活動と密接に結びついた偶像礼拝。それを 拒むことは、社会の一員としての生活そのものを危うくすることを意味しました。しかし彼らは偶像を捨て、「生ける真の神」に立ち帰ったのです。この大胆な変化こそ、福音の力が働いた証しでした。

 さらにパウロは、テサロニケの信徒たちが「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」と記します。信仰を持つことは決して安易な道ではありません。むしろ彼らは信仰のゆえに迫害を受け、社会から排斥されました。それでも彼らは喜びを失わなかったのです。ここに見られる「聖霊による喜び(6節)」は、人間的なポジティブさとは異なります。状況や感情に左右されない、神の臨在によって与えられる深い喜びです。

 このように選ばれた者としての歩みは、必ず周囲に影響を及ぼします。テサロニケの信徒たちの信仰は、マケドニアやアカイア州にまで知られるようになりました。彼らは自分たちが模範になることを意識していたわけではありません。ただ信仰に忠実に生きただけです。しかし、その姿が他者を励まし、信仰を伝える証しとなったのです。

 私たちもまた同じ選びの中にあります。神に選ばれたことは、私たちの自慢ではなく、神の恵みの証しです。その選びに応えて、偶像から離れ、生ける神に仕え、再臨の主を待ち望む歩みを続けたいものです。ハレルヤ!


2025.9.14 小さな泉の恵み

 「恵み」(ウネ、grace)

 「手に入れたもののすべて 過ごしてきた時間すべて 歩んできた道すべて ただすべてが主のめぐみ」 先週の礼拝で、閔先生に賛美していただいた韓国ソング『恵み』(ソン・ギョンミン作曲、2020)の一節です。“当たり前のことなど何もない”と謳うその内容は、正に穏やかに諭してもらえるソングだったと思っています。“ただキリスト・イエスによる贖いの業を通じて、神の恵みにより無償で義とされるのです。”(ローマ3:24)、これが恵みです。 

この恵みには、最近、私は「空間的な恵み」(=自然)と「時間的な恵み」(=隣人)があると感じています。自然がヒトに、繰り返し恵みを与えてくれるように、ヒトは常に自然に対するまなざしを持ち、見守らねばならない。後者の「隣人」については、サマリヤ人の話は有名です(ルカ10:25-37)。このたとえ話は、神の人間に対する憐れみとも理解されています。今度は、恵みを与えられた人間が行うべきなのです。 

隣人のなかでも、ここでは地域の状況を考えたいと思います。毎週、教会には来ていますが、この堀川地区についてはほとんど何も見えていません。その堀川地区で、8月末に初めて地区センターを活用した「子ども食堂」が開催されました。子ども食堂は、子どもという名前は付いていますが、今日では大人・高齢者等も集まる地域コミュニティの拠点となっています。主催者によりますと、提供した食事は240食(来場者は80食、残りは持ち帰り等)だったと言います。市の情報によりますと、堀川地区の世帯数は5,844世帯、人口は11,684人です。うち65歳以上の人口は3,383人(対人口比30%)、14歳以下の人口1,325人(同11%)、市街地に近いとはいえ確実に少子高齢化は進んでいます。そのなかでの240食(同2%)はそれなりのニーズがあるということであり、氷山の一角とも考えられます。まだまだたくさんの「隣人」が求められています。 

                                S.T.兄


2025.9.7 牧師室便り

 「 福音と救いの感動を再び!」 

先週の水曜祈祷会では、ローマの信徒への手紙を黙想しました。先月まで読んでいたエゼキエル書は預言書特有の難しさもあり、正直なところ読みづらさを感じた方も多かったと思います。しかし今月からはローマの信徒への手紙に移り、少しは親しみやすくなるのではないでしょうか。

ローマ書は「聖書の中の聖書」とも呼ばれ、福音と救い、罪の現実、祈り、神の愛、そしてクリスチャン生活に必要な基礎が凝縮されています。アウグスティヌスはここを通して「神の光に照らされた」と証しし、ルターは「最も純粋な福音」と呼び、「日々暗唱して味わうべきだ」と語りました。さらにカール・バルトは「神の言葉の雷鳴」と表現し、この手紙が歴史を通して多くの人に回心と刷新をもたらしたことを示しています。

先週の分かち合いの中で、「この書が私たちに新しいチャレンジを与え、信仰を立て直す機会となればなんと素晴らしいだろう…」という思いが与えられました。牧師である私自身にとっても、信仰と神学をもう一度確かめ直すときにしたいと願っています。そして皆さんにとってもまた、新しい挑戦であり恵みの機会となることを期待しています。

そこで一つの提案があります。この期間だけでも、お時間の許される方々と共に、毎朝9時から一時間ほど御言葉を黙想し、祈るひとときを持ってみませんか。福音と救い、罪、神の愛、そしてこの世界をキリスト者としてどう生きるかなど、そのすべてを御言葉を通して再確認する時となることを願っています。皆さんのご参加を心からお待ちしています。シャローム。


2025.9.7 本日の宣教

 『  信仰・愛・希望に生きる教会  』

                     テサロニケの信徒への手紙一1章1~4節

本日からしばらくの間、テサロニケの信徒への手紙を分かち合ってまいります。

一テサロニケの信徒への手紙は、現存するパウロの手紙の中で最も古いものといわれています。テサロニケ教会は、パウロがわずか三週間しか滞在できなかったにもかかわらず、信仰に燃え、福音に生きようとしていた初代教会の模範的な教会でした。

まずパウロは、「恵みと平和」をもって教会に挨拶を送ります。「恵み」(ギ:カリス)は、神がイエス・キリストを通して私たちに与えてくださった救いを思い起こさせます。また「平和」(ギ:エイレーネー)は、旧約聖書における「シャローム」と同じ意味で用いられています。平和は人間が作り出すものではなく、神から与えられる賜物なのです。

続けてパウロは、「信仰による働き、愛のための労苦、希望をもって忍耐する」ことを覚えていると記しています。ここにはクリスチャン生活の本質が表されています。信仰は心の中の思いにとどまるものではなく、行動となって現れます。愛は感情にとどまらず、ときに労苦を伴います。そして希望は、苦難の中にあっても忍耐をもって歩み続ける力となります。テサロニケの信徒たちは、まさにこの三つの実を結んでいたのです。

彼らは決して恵まれた環境の中で信仰生活を始めたのではありません。むしろ、ユダヤ人の妬みによる迫害と社会 からの圧迫のただ中で教会は誕生しました。それでもなお彼らが信仰を捨てず、互いに支え合い、希望をもって歩んでいたことを、パウロは深い感謝をもって神に報告しているのです。

そしてパウロは決定的な言葉を加えます。「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています(4節)」。

これは何という慰めでしょうか。信徒たちは迫害の中で自分たちの信仰が揺らぎ、「本当に私たちは神に受け入れられているのだろうか」と不安に駆られていたかもしれません。しかしパウロははっきりと告げます。あなたがたは神に愛されている。あなたがたは神に選ばれた者なのだと。この言葉によって、信仰生活の基盤を私たちの弱さや努力ではなく、神の愛と選びに置くことになります。

もし自分の力に頼るなら、私たちはすぐに疲れ果て、失敗し、落胆してしまうでしょう。しかし神の愛と選びが確かであるならば、私たちの信仰は揺るぎません。パウロがテサロニケの信徒に伝えたのは、まさにこの確信でした。

私たちが「神に愛されている」ということ、そして「神に選ばれた者である」ということ、この確信こそが、私たちを支え、教会を生かし続ける力となります。これこそ小泉町教会の神の家族お一人お一人が、常に抱くべき告白です。ハレルヤ。


2025.9.7 小さな泉の恵み

 8月3日から11日間、クラスのみんなと一緒に韓国研修に行きました。韓国では、英語の授業、ホームステイ、姉妹校交流など、たくさんのイベントがありました。私たちが暮らしたところは、大田という街です。高いビルがたくさん並んでいて、道に何度も迷いそうになりました。親なしで、2週間も知らない場所で生活するというのは初めての経験であったため体力的にとてもきつかったです。朝起きることも、洗濯することも、部屋の掃除をすることも、すべてが面倒に感じ、改めて親の偉大さに気づきました。知らないうちに、私は親にたくさん甘えていたのだと実感しました。 

エフェソ人への手紙6章1〜3節 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「父と母を敬え。」これは約束を伴った最初の掟です。 そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる」という約束です。 

いつも親の言うことには素直になれず、つい反抗してしまいますが、どんな時でも私の味方でいてくれる両親に、日々感謝し尊敬しています。また、長い旅の間、無事に過ごし、安全に帰ってこられたことを神様に感謝します。

                         M.S.姉

2025年9月1日月曜日

2025.8.31 牧師室便り

  「御言葉、御言葉、その上に」

今日で厳しい暑さの8月が終わり、明日から新しい9月が始まります。9月に入れば、この暑さも少しずつ和らいでいくことでしょう。

日本バプテスト連盟では、毎年9月を「教会学校月間」として大切に守っています。教会学校はバプテスト教会の始まりから最も重んじられてきた働きです。その対象は子どもたちだけではなく、大人を含めた神の家族すべてであり、年齢に関係なく、天の御国に帰るその時まで御言葉を学び続け、信仰の家を御言葉の上に建てていくことを目的としてきました。

小泉町教会の教会学校も、大人の皆さんの積極的な参加によって大きく祝福されています。まだ参加されたことのない方も、ぜひ礼拝前の教会学校に加わり、御言葉の恵みを霊の糧としていただきたいと願っています。

さらに今週からは、第2学期の聖書の学びが再開されます。現在はヨハネの黙示録を学んでおり、主イエスが七つの教会に語られた御言葉を通して、それぞれの教会の姿を自分たちの教会に重ね合わせる、恵み豊かな時間となっています。聖書の学びに関心のある方、御言葉を深く知りたい方は、ぜひお集まりください。

繰り返しお伝えしているように、教会の最大の力は御言葉の上に立つことにあります。御言葉を土台としない教会は、どれほど立派な活動をし、多くの人が集まっても、ひとたび試練が訪れれば崩れてしまいます。しかし、御言葉を土台として立つ教会は、どんな試練や嵐、台風に襲われても倒れることはありません。むしろ試練を通して強められ、成長を遂げるのです。

願わくは、この9月からの新しい礼拝、教会学校、そして楽しい聖書の学びにおいて、聖霊なる神が時にかなった知恵と力と助けを、御言葉を通して豊かに示してくださいますように。

シャローム。



2025.8.31 本日の宣教(交換講壇)

  『 見ないで信じる者は幸いである 』

ヨハネによる福音書20章24~29節

人間は、目に見える存在が自分の近くにいてくれたり、目に見えるものが自分の手元にあると安心できるのかもしれません。そして、信じやすいのかもしれません。

私たちの信じる神様は、どうでしょうか。

目には見えませんが、いつもすぐそばにいて下さることを私たちは知っています。

こどもの頃にこんな賛美歌を習いました。


♪美しいこの空を 愛らしいこの花を

浮かんでる白い雲 香り良き青草を

じっと眺めるだけで ただ眺めているだけで

ほら君もわかるでしょ 神様がわかるでしょ


この世界を見たら、神様の存在が分かる。


ある生物学者は、遺伝子の構造や生命の仕組みの精巧さを目の当たりにして、

これらは、偶然ではありえない この根底には、偉大なる何かが存在する 「Something Grate」の存在を提唱しました。

生物自身の進化や、人間業ではどうにも説明のつかないことがあるのだということ。

この学者は、「神様」とは呼んでいませんが、「Something Grate」偉大なる何かが存在するのだと言います。

「見ないで信じる者は幸い」とイエス様は言われました。聖書でいう「幸い」とは、私の幸でもあり、同時に「神様の幸」でもあります。私が神様を信じて歩むことを、神様は喜ばれご自身の「幸」とされます。                                              

                       T.A.姉(金沢キリスト教会)


2025.8.31 小さな泉の恵み

 『聖書が重くならないように』

実はまだリビングライフをやっています。1年の定期購読にすると1か月おまけなので、2019年1月からの定期購読が2025年度は5月更新でした。約半年ぶんお得になっています。

 ご存知のとおり、聖書には『安心』して読み通せる箇所はなさそうです。旧約はもちろん新約でも、ちょっと読み進めば難解な箇所、ズバっと突かれる箇所に必ず行きあたります。そこを飛ばさず、コッテリ読ませてくれるのがリビングライフのいいところ。

 小泉町教会での5年の間に培われたリビングライフ日課。今の教会までの距離や奉仕のスケジュールや教会の聖書日課もあったりして、リビングライフだけをゆっくり黙想する時間はなかなかありませんが、最低やるのは1)2回声に出して読み2)解説をざっと見て 3)三回目読んで 4)エッセイをざっと見て5)日々の祈りを読みます。これだけでも毎日続けていると、その日遅くなっても「いかん、やっとかないと」と急いでひっつかんで開くことができます。「片手でつかめる一冊の重さ」。小泉町教会に来たばかりで日課になじめなかったころ、「あとでまとめて読もう」と思っても、放置日数とともにその一冊が重くなり、新品のカドは固くページの縁は鋭くなって行った経験がありますから、この変化は確かです。        

リビングライフの一冊が軽くなると、聖書そのものも手に軽くなり、ほかの聖書日課などともいろいろとつながります。そして小泉町教会との距離も近く保たれているに違いありません。たとえ将来教会の外観が変わっていても...いやそれまでには再び訪ねたい帰りたい。   

                            S.M.姉