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2025年10月11日土曜日

2025.10.5 本日の宣教

  『  神に喜ばれるために  』

                   テサロニケの信徒への手紙一  4章1~8節

私たちの人生は、誰かに喜ばれるために生きていると言えるでしょう。子どもであれば親に、夫婦であれば互いのために、学生であれば教師や仲間に、社会人であれば上司やお客様に喜ばれようと努めます。

しかし聖書は、すべての人間関係を超えて、私たちが「神に喜ばれるために」生きるよう招いています。

「神に喜ばれるために生きる」ことこそ、キリスト者の生涯における目標であり、使命です。その中でも、神に喜ばれるための最も大切な場こそ、礼拝の場であるでしょう。礼拝こそ、神にお会いする場であり、神の御業を賛美し、自分自身を神に献げるための場です。私たちは何よりも、神に喜ばれるためにここに集っているのです。

神に喜ばれるということは、使徒パウロが繰り返し用いた大切な言葉です。パウロは、自らの働きを終える時まで、すべてのことを「神に喜ばれるために」歩んでいると語りました。その中心的な教えが、ローマの信徒への手紙12章1~2節に記されています。

「…自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

パウロは、自分の体を「神に喜ばれる生けるいけにえ」として献げることこそ、キリスト者の真の礼拝であると強調しています。そして、生けるいけにえとしての具体的な生き方を示しています。救われた者の信仰は、言葉や知識にとどまらず、行いによって表されなければなりません。心に抱く思いや頭に蓄えた知識を、具体的に「体 をもっての行動」へと移すこと、しかも「神に喜ばれる」という目的と土台の上で行うことこそが、礼拝なのです。

パウロは、きょうのテサロニケ教会への手紙の中でも、「神に喜ばれるために」どうあるべきかについて、具体的な指針をもって勧めています。

「神に喜ばれる」という表現は、私たちに二つのことを思い起こさせます。第一に、神がすでに私たちを愛してくださっているという前提です。私たちは神に愛されているからこそ、その愛に応答して生きるのです。第二に、神の喜びは人間の一時的な評価とは異なり、永遠に変わらないという点です。人に喜ばれることを追い求めると、私たちは常に比較や競争、そして失望の中を生きることになります。しかし神に喜ばれる歩みは、神ご自身の御心に根ざしているため、揺らぐことのない確かさを与えます。

そこでパウロは、神に喜ばれる生き方の核心を「聖なる生活」として示します。 「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。(4:7)」

聖なる生活を自分の力だけで生きることは不可能です。しかし、私たちのうちに住まわれる聖霊は、私たちを助け、罪を示し、悔い改めへと導き、神に喜ばれる新しい生き方を開いてくださいます。そして、神に喜ばれる道を歩む力を与えてくださいます。

ハレルヤ!


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